流れ星の夜明け[前]


 流れ星を見た時、三回願いを唱えると願いが叶うというのは日本では有名な話だ。
 小さい頃両手を合わせて一生懸命唱えた記憶がある。
 内容までは覚えていないけれど、多分スケートのことだと思う。
 いっぱい滑れますように。 失敗しませんように。 ヴィクトルの隣に立てますように。
 でも、流れ星が凶兆とされていることもある。
 おとぎ話で星が流れると人が死ぬなんてシーンはよく見てきた。
 今もどこかで星が流れているだろう。
 その星は吉兆なのか凶兆なのかは誰にも分からない。
 

 スケートをしていなかったらどんな人生を歩んでいただろうか、たまに考えることがあった。
 きっと普通に大学を卒業して、ヴィクトルに出会うこともなく何でもない日常を過ごしていただろう。
 右手をかざして光る指輪を見る。 そして足元に置かれたスケート靴を見て考えてみるけれど、スケートをしていた人生でよかったと改めて思えた。
 青春を捧げたなんていうとくすぐったい話ではあるが、青春どころか人生丸ごとスケートに捧げてきた。
 その人生の半分以上をスケートの神様であるヴィクトル・ニキフォロフに憧れ生きて、この神様の隣に立ちたいと願ったのだ。
 憧れはすぐ近くにやってきた。 努力の結果、同じ舞台に立つことができた。
 初めてのGPF、結果は散々。 悲しきかな同じ舞台だと喜ぶ暇もなかった。
 それから次のシーズン、嘘みたいな話だがヴィクトルがコーチとして傍にいてくれた。
 今まで生きてきた中で一番といってもいいぐらいとても濃い八ヶ月を過ごし、そのシーズンのGPFは銀メダルに終わる。
 そしてその次のシーズン、ヴィクトルは同じ舞台に戻ってきてくれた。
 勇利の人生にヴィクトルの存在は欠かせないものとなる。
 スケートでもプライベードでもずっと支えてきてもらっていた。
 沢山の愛を与えてくれた、今も与え続けてくれている。
 今度はお返しをしたい、いっぱいの愛をヴィクトルに返せたらいい。
 そう思っていた矢先の出来事だった。 競技者を引退してしばらく経った頃、ロシアで原因不明の病気が流行りだす。
 ロシアに住んでいるものの、その病気はあまり身近に感じずにいた。
 テレビの向こう、どこか遠くの話だと思っていた。 思っていたかった。

 朝食をとっている時にヴィクトルが声をかけてくる。
「ねぇ勇利、昨日何食べた?」
 その言葉を聞き、ヴィクトルには分からないように小さくため息を吐いた。
「また忘れちゃったの?」
 朝食の時間に必ずヴィクトルが聞いてくる言葉。
 たまに聞いてくるならまだよかったのだが、毎日続いたことでヴィクトルが病気になっていることが分かった。
 最初はただの物忘れかと思い、ヴィクトルも歳をとったんだなと笑ったぐらいだ。
 けれど必ず同じことを聞いてくる様子にちょっとした恐怖を覚えた。
 どうしてしまったのだろう、こんなこといままでなかったのにと。
 ふとテレビを思い出す。 流行っている病気、それはいったい何だっただろうか。
 物忘れや記憶障害とは少し違う病気、原因は不明。
 ただ少しずつ少しずつ記憶が消えていく、治療法に関してはテレビでは言っていなかった。
 頭の中が真っ白になったような気がした。
 気づいた時には一緒に病院に行っていて、ヴィクトルは医者と何かを話してその日は終わる。
 あっという間に過ぎ去って、頭の中が真っ白のままになっていたことだけは覚えている。
「んー、ごめんね……で、何食べたかな?」
「昨日はペリメニ食べたでしょ」
「そうだったそうだった!」
 日本でいう水餃子が昨日の夕飯だった。
 朝食を食べ終わり、ヴィクトルは出掛けていく。
 勇利は現在ノービスの生徒の指導にあたっている、といっても週に一度ぐらいだ。
 理由はヴィクトルが原因不明の病気になってしまったことにある。
 真っ白になってしまった頭でも、思うことはあった。
 看病しなければ、そして何より傍にいなければと思ったのだ。
「今日の予定は?」
 この予定とは勇利のことではない、自分の予定は何だったのだと勇利に聞いている。
「ユリオのコーチでしょ、ほら行った行った」
 コートを渡してヴィクトルを家から追い出すように出掛けさせた。
 傍にいなければと思って自分の仕事はセーブしているのに、ヴィクトルが仕事をして離れているのは少しおかしい。
 いや、おかしすぎると言葉で伝えたい気持ちだけはある。
 しかし体は元気でスケートもできるのだ、止めようがない。
 看病といっても医者でない自分には何もできない。 正しくは医者でもどうにもできない病気だ。

 ヴィクトルはゆっくりと記憶を失っていっている。

 医者と話をしたのは病気であるヴィクトル本人だけで、勇利には何も話がなかった。
 看病は必要ないということだろうか、それとも看病の意味はないということだろうか。
 記憶が失われていく進行はとてもゆっくりだ。
 よくある漫画のような、大事なことをすぐに忘れるということではなかっただけありがたかった。
 大事なことよりも特に何でもないようなことから忘れていくらしい。
 らしいというのは、調べてもよく分からなかった為だ。
 何でもないようなことをゆっくりと忘れていくなんて、歳からの物忘れだと思ってしまうのも仕方のないことではあるし、ただの忘失だと感じてしまう。
 病気なんて思うわけがない。
「僕のこと忘れないでほしいな……」
 いない時だけ本音が出てしまう。 朝食の皿を片付けて出掛ける支度をし始めた。
 今日はちょうど週に一度の仕事の日だ。
 ヴィクトルのことばかり考えていて危うく忘れるところであった。


 スケートリンクに到着してさすがロシアだと思うことがあった。
 才能がある子供がいっぱいいる。 ただノービスの子の入れ替わりが思っている以上に激しくて覚え切れないことは問題だと思うのだ。
 先週教えた生徒が何人かいなくなっていて、新しい生徒が増えていた。
 ここまで入れ替わりしなくてもいいのにとも思うが、週に一度しか来ていないことを考えると仕方のないことかもしれない。
 ここのスケートリンクではそれが当たり前なのかもだと思うことにした。 あくまでここではという話だ。 他では違うのだろう。
 ノービスの指導が終わる頃には休憩に入っていたシニア勢がやってくる。
 朝、追い出すように出掛けさせたヴィクトルもユーリと共にやってくるはずだ。
 指導も終わり片付けている途中、既にやってきていたヴィクトルがこちらをじっと見つめてきていた。
 どうしたのだろうと話しかけると、あまり見ない苦い表情を見せてくる。
「勇利何してたの」
「何ってノービスの子の指導だよ、僕の仕事……忘れちゃったの?」
「いや……うん大丈夫」
 とてもじゃないが大丈夫ではない様子。 もしかして病状が悪化してきているのだろうか。
 病院にいってから月日は経っている、悪化し始めてもおかしくはない。
 スケートのことだって自分のことだって忘れていない様子ではあるし、聞かれることといえば夕食の話ぐらい。
 少しずつ記憶が消えていくなんてあまり感じることもなかったので、目の当たりにすると結構ショックが大きい。


 寝れない。

 ショックの大きさで何から何まで吹き飛んだ気分だ。
 このまま記憶が消えていってしまったらどうなってしまうのだろうか。
 出会ったことも、あの時のシーズンも、そしてこの指輪も自分のことも全部忘れていってしまう未来を想像して胸が痛い。
 横で静かに寝息をたてているヴィクトルを見つめて考える。
 いっぱいの愛をヴィクトルに返せたらいいと思っていた。
 けれど、その愛を受け取ってくれるかも怪しくなってきてしまったのだ。
 受け取るどころか何故愛なのかすら忘れられてしまったら、どうしたらいいのだろう。
 目元がじんわりとしてきて頬を濡らす。
 治療の方法はあるのだろうか。 病院には行ったけれど話を聞いたのは病気になっている本人のヴィクトルだけ。
 しまったと思った。 聞いておけば、原因不明の病気だけれど何かできることがあったかもしれない。

『ねぇ勇利、昨日何食べた?』

 本当、この言葉がトラウマになりそうだ。
 何を食べたか忘れてしまったのは悲しいな、僕を食べたでしょ。 なんて言ったらヴィクトルはどんな顔をするだろうか。
 あの大きな手のひらで頬を撫でて、忘れたことを謝るのかもしれない。
 いや、謝らないで思い出すためにもう一度食べるなんて言い出しそうだ。
 恥ずかしいけれど、それもまたいいかもしれない。
 起こさないようにそっとヴィクトルの頬を突いてみる。
「ねぇヴィクトル、いつになったら僕食べる?」
 寝ているのだから声は届かないはずなのだけれど念のために小声で呟く。
 これでいきなり起きられた日には、恥ずかしくて顔など合わせられない。
 記憶のことを考えて思考が暗く止まり、ヴィクトルのことを想って思考が明るく働き出す。
 寝顔を見つめながら、考えと想いにぐるぐると思考が回り、気づけば朝になってしまった。
 例えヴィクトルが記憶をなくしてしまっても、ヴィクトルはヴィクトルなのだから傍にいればいい。
 一晩中考えて寝れなかったけれど、結論はいたってシンプルだった。
 朝になってしまった為、朝食の支度をするのにそっとベッドを抜け出す。
 家事に関しては、やれる方がやるという曖昧なルールになっているため、今日は先に起きた勇利が朝食を担当することになる。
 ヴィクトルが先に起きることが多いため、勇利が朝食を準備するのは珍しいほうだった。
 クロワッサンを温めている間にサラダを作る。 小さい器にフルーツを入れたら朝食は完成だ。
 簡易なものではあるが、朝からがっつり食べる気にもならないので、そこは許してもらおう。
 まだ寝ているヴィクトルを起こしにいこうと寝室に向かったが、起きてきたようで寝室に辿り着く前に遭遇する。
「おはよう」
「おはよう勇利」
 綺麗な銀色の髪が寝癖で外にハネている。 家の外では絶対見せないその姿に勇利は微笑み、髪を撫でてぎゅっとハグをした。


「ねぇ勇利、昨日何食べた?」
 いつも通りのいつもの言葉。 また忘れたのなんて言いながら昨日の夕飯メニューを答えればいい。
 しかし、今日は返す言葉が出てこなかった。
「勇利……?」
 ヴィクトルのことばかり一晩中考えて寝れなかった勇利の思考は定まっていない。
「ごめん、何だっけ?」
 聞き返してみると、ヴィクトルは目を見開いて驚いていた。 驚いた顔はなかなかに新鮮だ。
「え、どうしよう……勇利が覚えていないのは困る」
 たかが夕飯のメニューだ、何をそんなに困るのかは分からないけれど、ヴィクトルの声は震えていた。
 この病気は、昨日食べたものを思い出すことが大事なのだろうか。
 正直なところ困ると言われても、症状が悪化していってるのかもしれないヴィクトルをどうやって支えていくかで昨日は頭がいっぱいだったのだ。
 寝ずに考えていたことが、果たして支えていくかという内容だったかといわれると違うかもしれないが。
 総じてそんな感じだ。 間違ってはいないと思う。
「えと、じゃあ今日の予定は?」
「多分何もなかったと思ったけど」
 困ったことに寝不足で頭が働かない。 食卓からリビングに足を運び、テーブルの上に置いてある手帳を開いてみる。
 今日の予定は真っ白だった。 何もなかったと口にした言葉は間違ってはいない。
 よかったと思うと同時に、ヴィクトルが勇利の仕事を忘れかけてたのかもしれないことや、今日の様子を見てこのままではまずいと思い始めた。
 ヴィクトルがそっと勇利の手を握る。
「予定ないなら、病院……いく?」
「そうしようか」

 病院へ向かう道中はずっと無言で手を繋いでいた。
 落ち着かない。 これから医者に何を言われるか分からないのに落ち着いてなどいられなかった。
 昼過ぎに病院に着き、診察時間をただただ待つ。
「勇利、そんな顔しないで」
 見るに堪えない顔をしていただろうか、ヴィクトルが覗き込んできて微笑んだ。
 その微笑みに応えるように手をきつく握り返す。
 一番不安なのはヴィクトル自身のはずなのに、なんて表情を見せるのだろう。
 それが辛くて苦しくて、なかなか顔をあげることができないでいた。
 診察の時間、何か変わったことはないかと聞かれる。 本人の前で言うのも少しためらいはあったが、自分の仕事のことを忘れかけたのかもしれないと伝えた。
 カルテに何か書いていた医者は、ヴィクトルだけに話があると言葉にして、勇利は待合室に戻される。
 どれぐらい経っただろうか、時間にして短かったような気はするのだが、勇利にとってはとても長く感じた時間。
 診察室から出てきたヴィクトルの表情は、あまりよくなかった。
 ヴィクトルが治療法が見つかったと小さな声で言ってきた。 驚き見つめるけれど、でも喜ばしい感じではないようだ。
 結局、どうすれば治るのかという話はできないまま帰宅することになる。

 病院に着いたのは昼過ぎだったが、帰る頃には夕方になっていて空には星が薄ら見え隠れしていた。
 行きと同じように無言で手を繋いだまま進んでいく。
 治せると分かったはずなのに、ヴィクトルはかなり落ち込んでいるようだった。
 そんなヴィクトルの様子とは逆に、少し前まで落ち着かずにいた勇利は、治療という言葉を聞いてホッとしていた。
 きっと治る、そう信じたい。 そんな思いが頭の中でぐるぐると巡る。
 しかし、この世界に絶対なんて言葉はない。 治らない可能性だってある。
「大丈夫だよ、大丈夫……お守りで繋がってるよ」
 勇利はヴィクトルを抱きしめて安心させるように声をかけた。
 たとえ忘れてしまっても、この指輪が繋がりを切りはしない。 色々悩んだり考えたりしたけれど、ずっと傍にいると決めたのだ。
「思い出せるまでじゃなくて……思い出しても、傍にいてよ」
 震える声。 ヴィクトルのこんな姿を見ることになるなんて思いもしなかった。
「うん、傍にいるよ。 忘れてしまってもヴィクトルはヴィクトルだから」
 忘れないでほしいと思うのは当たり前だけれど、忘れてしまったら関係がなくなるわけじゃない。
 伝えてすぐ、ヴィクトルは勇利をきつく抱きしめて耳元で囁いた。
「違うんだ」
「え?」
 何が違うのだろうか。 息が耳にかかり、すぐに痛みが走る。
「いっ……」
 ヴィクトルが勇利の耳を噛み、傷をつくった。
 切れた耳から血が流れてヴィクトルがそれを舐めている。
 発言も行動の意味も分からずにいた勇利にヴィクトルの声が静かに届く。


「違うんだよ勇利……忘れていってるのは、キミの方なんだ」


 星空の中のひとつが流れた、それは吉兆なのか凶兆なのかは誰にも分からない。