流れ星の夜明け[中]
流れ星を見た時、三回願いを唱えると願いが叶うというのは日本では有名な話。 それを聞いたときはとても驚いた。 星は命に例えられ、流れるのは生まれたしるし死んだしるしとされることが多い中、日本人は本当に面白いことを考えると思う。 勇利はどんな願い事をしたのだろうか、聞いてみたけれど教えてはくれなかった。 日本人にならって今度願い事を唱えてみようかと考える。 何がいいだろう、スケートのことは充分叶っているし、二つのLを勇利から与えてもらってからは私生活も充分だ。 驚いた。 勇利が傍にいるようになってから願いは全部叶っているではないか。 もう勇利がヴィクトルにとっての星といってもいいと思うわけだ。 二十年以上ほったらかしにしていた二つのL、それを与えてくれたのはお星様である勝生勇利だ。 とても充実した毎日、止まっていた時間が再び動き出した高揚感。 競技者人生を終えている今でも、勇利が傍にいてくれることでキラキラと輝く毎日だ。 スケートをしていた人生でよかったことは何だと問われると、色々なことを思い出す。 小さい頃はスケートそのものが楽しくてしかたなかった。 その楽しいスケートで、みんなが驚いてくれるのが嬉しくてたまらなかった。 楽しかったこと、嬉しかったこと、途中で暗闇に足を引っ張られそうになったこともあるけれど、それも含めていい思い出になっている。 今だから思えることだけれど、一番よかったと思ったのは勇利に出会えたことなのかもしれない。 勇利との出会いは年月をさかのぼる。 GPFの舞台で出会い、直接話をして触れ合い、存在を意識したのは試合後に行われたバンケットだった。 あんなに楽しかったバンケットは初めてだと言っていい。 それはもう驚きの連続で、とても楽しくて言葉では表せれない気持ちでいっぱいだったわけだが、バンケットで交わした言葉を最後に、それ以降勇利と会うことはできなかった。 しばらくして、次に勇利を目にしたのは動画の中で踊る姿だった。 考えるという時間もそこそこに、日本に降り立っていた懐かしい思い出。 動画の中、氷上で踊る勇利に感じるものがあった。 それにもう一つ加えると、バンケットで勇利が言葉にしたコーチというものをやってみたら皆が驚いてくれるかと思ったのだ。 結果としてバンケットで唱えられたコーチにという願いを叶えることになり、新鮮で幸せな八ヶ月を過ごすことになる。 金メダルにキスをすることはできなかったわけだが、ヴィクトルの人生に勇利の存在は欠かせないものとなった。 スケートでもプライベートでもずっと一緒にいた。 本来ならほったらかしにしてはいけないであろう二つのLを与えてくれた、今も与え続けてくれている。 自分が勇利に与えられるものはなんだろう、溢れんばかりの愛を見せてくれる勇利に与えられるもの。 色々なことを思っていた矢先の出来事だった。 ロシアで原因不明の病気が流行りだす。 記憶が、少しずつ少しずつ消えていってしまう一種の記憶障害だ。 消えていくというのは少し違うのかもしれない、忘れていってしまうといったほうが正しいのか。 その病気に、勇利がなってしまったのだ。 現実をいまだ受け止めきれないでいる。 きっかけは何だったのか、確か珍しく勇利が約束を忘れたことが始まりだったような気がする。 勇利はごめんと頭をさげてきたけれど、ヴィクトルはそれどころではなかった。 脳裏をよぎったのはテレビで流れていた病気のこと。 自分が約束を忘れることは、あまり良いとは言えないがよくある話なのだが、勇利が忘れるのは稀だ。 まさかなんて思う日がくるとは思っていなかった。 自覚がない勇利に病院に行けと言っても聞き入れないだろう。 だから約束を忘れた罰として病院に行くことにした。 健康診断だよなんて嘘までついて。 結果からいえば、悪い予感というのは当たるものだということだ。 医者から伝えられたことは、あまり良くないことばかりでヴィクトルはその場で頭を抱えた。 記憶が失われていく進行はとてもゆっくりで、大事なことよりも特に何でもないようなことから忘れていくようだ。 『昨日の夕食を思い出せるうちは大丈夫でしょう』 なんて言われて本当に大丈夫だと思う奴なんているのだろうか。 自覚がないうちは、そこまで悪化しないとも言われる。 ここにきて健康診断だと嘘をついた自分を心底褒め称えた。 それと同時に自覚してしまったらどうなるのだろうか、そう考えて心臓が痛くなる。 締め付けられた胸を服の上から掴みながら続く医者との会話。 忘れてはならないことは、これは流行り病だということだ。 『発見されているのは血液感染のみです……怪我には気をつけてください』 この言葉により勇利の仕事をセーブさせることがヴィクトルの中で決定した。 自覚がない状態で誰かにうつり、自分が原因だと知った時の勇利を想像してまた心臓が痛くなる。 最後に治療の話にはなったけれど、内容を聞いたあとヴィクトルの頭の中は真っ白になっていた。 何故だと医者に掴みかかれば手をはじかれて、膝におちた手をきつく握り締めることしかできない。 幸いなのかこの病気の進行はとてもゆっくりだ。 治療までの間に心を落ち着かせてと言われてその日は終わってしまった。 「ねぇ勇利、昨日何食べた?」 それからずっと朝食の時間に必ず聞くことにした言葉。 昨日の夕食を思い出せるうちは大丈夫だろうという話だったので、この言葉を必ずかけることにしている。 「また忘れちゃったの?」 もし、返事が返ってこなかったらと思うと震える身ではあるが、聞かないわけにはいかない。 また聞いてきたなんて苦い顔をしている勇利を見ると辛くもあり悲しくもある。 「んー、ごめんね……で、何食べたかな?」 「昨日はペリメニ食べたでしょ」 「そうだったそうだった!」 勇利は仕方ないと夕食の内容を口にしてくれているが、ヴィクトルはそれを知っている。 昨日はペリメニを食べた……勇利いわく水餃子のようなものだという。 食べたものを問う度に、違うんだと、忘れたわけではないのだと何度言葉がこぼれそうになったか……。 朝食を食べ終わり、ヴィクトルが出掛ける時間となってしまった。 勇利は現在ノービスの生徒の指導にあたっている、といっても週に一度ぐらいだ。 記憶を少しずつ失っていることに自覚がない勇利は、ヴィクトルが病気になったのだと勘違いをしているようだった。 その勘違いによって仕事をセーブさせることに成功したので、その点はよかったのかもしれない。 「今日の予定は?」 この予定とは勇利のことではない。 夕食を思い出すだけでは不安な為、予定の管理も勇利に任せようと思っていた。 手帳を渡して予定の管理を任せ、昨晩の夕食と今日の予定を聞く毎日。 「ユリオのコーチでしょ、ほら行った行った」 コートを渡されて家から追い出されるように出掛けさせられる。 いつものように微笑んでヴィクトルの背を押す勇利。 こんな様子を見たら病気なんて誰が思うだろうか。 外に出て、空を仰ぐ。 「まだ……大丈夫だ」 その言葉の重みに時折押しつぶされそうになる。 仕事をセーブしなければならないのは自分の方ではないかと考えることは多々あった。 傍にいて支えなければいけないのに、何故仕事で離れることになっているのだろうと思う。 しかし、記憶のことに関して以外は元気でなんともないのだ。 へたに仕事をセーブして勇利が自覚をしてしまったらと思うと、ヴィクトルは身動きがとれない。 「俺のこと忘れないでほしいな……」 勇利の前では決していえない本音がヴィクトルの口からそっと出た。 追い出されるように出掛けてから少ししてスケートリンクへと到着する。 中に入りリンクを見てみるとユーリが滑っている最中であった。 「おい、大丈夫か?」 ヴィクトルの存在に気づいたユーリが近づいてきて、おそるおそる声をかけてくる。 「ん?なんだいユリオ、心配してくれるの?」 「んな顔色見せにきてんじゃねーよ」 そんなにひどい顔だったのだろうかと、両手を自分の頬に当ててみた。 ユーリはその様子を見て大きく溜息を吐く。 人に心配をされているようでは駄目だろうなと思いはするものの、現状をどうにもできないというのは気持ちとして重くのしかかるもので、忘れていってることを忘れられたら楽になれるのかなと思うことも多い。 決して声に出すことはしないけれど。 いつもなら言葉を返すヴィクトルが、黙ったまま頬に手を当てている。 しばらくその様子を見ていたユーリが何かを思ったのか目を見開いた。 今スマホで撮ったらいい記念になりそうだと思うような顔だ。 「まさか……」 「あぁ違う違う、まだ感染はしてないよ」 ヴィクトルは頬に当てていた両手を顔の横に上げて苦笑いをした。 いつもと様子が違うとはいえ感染を疑うなんてひどい話だ。 あまり心配をさせてもコーチ失格だと思い、ユーリを練習に戻らせる。 滑りを見ながらふとユーリのシニアデビューのGPFを思い出した。 あの時、引退を決意していた勇利を氷上に留めてくれたのはユーリだ。 口に出して助けを求めたわけではないけれど、ユーリは全てを背負って氷上へと立ってくれた。 「迷惑かけちゃいそうだなぁ」 こんなことを言ってしまうと、だったら最初からかけるなと怒られてしまうかもしれない。 いや、もしかしたら迷惑じゃなくて心配だと言われるのが正解かもだ。 色々考えている途中でも、ユーリの演技は見逃さないようにしっかり見つめる。 何度か跳び、戻ってくるユーリにヴィクトルは指導を繰り返した。 もう少しで休憩時間に入るというところだろうか、ノービスの子たちがリンク入りをし始めてきていた。 そこには勇利もいるはずだと、ユーリがリンクから上がったのを確認してから勇利がいるであろう場所に向かう。 その途中、ノービスの子たちの会話が聞こえてきて、ヴィクトルの思考が一瞬止まってしまった。 「勝生コーチ、俺のこと忘れてるみたいだ」 「あー、入れ替わり激しいからじゃねーの?」 「でもなぁ、知ってるのに初めましてはきついわ」 今朝、確かに夕食の話はした。 返事は返ってきていたし、そこまでひどい記憶の失いもまだ確認できていない。 けれど、ここにきて勇利の病状が悪化している現実にぶち当たったのだ。 初めまして、なんてもし自分が言われたらと想像してしまい胸が締め付けられる。 指導が終わり、片づけをしている途中の勇利をじっと見つめる。 「ヴィクトル……?」 どうしたのだろうと声をかけてきた勇利に、ヴィクトルは苦しい表情を見せ言葉を紡いだ。 「勇利何してたの」 「何ってノービスの子の指導だよ、僕の仕事……忘れちゃったの?」 子供たちに初めましてなんて言って、記憶を置き去りにして何をしていたの。 「いや……うん大丈夫」 言えるわけがなかった。 ヴィクトルは勇利に背を向けて唇を噛みしめる。 病院に行ってから月日は経っている、悪化し始めてもおかしくはない。 どうして勇利がなってしまったのだろう、どうしてこの病気を止めることができないのだろう。 勇利に与えられるものをずっと考えて探していたのに、与えることを許してはくれないのだろうか。 ヴィクトルは唇につくった傷を舐め、静かな足取りで急ぎユーリの元へと向かった。 「ユリオにひとつお願いがあるんだけど」 迷惑をかけるのは重々承知の上で、ユーリの正面に立つ。 「……高くつくぜ」 これから先、どうするのかを考えて頼む願い事。 淡く微笑んだヴィクトルの願いをユーリは静かに受け取った。 治療の話を聞いたとき、ふざけるなという言葉が出てきたのはやむ得ないことだ。 何故だと医者に掴みかかったのは少しだけ申し訳なかったと思う。 けれど、治療までの間に落ち着かせろなんてよく言えたものだとも思ったのは事実だ。 やはり掴みかかって正解だったのだろうか。 一度自覚してある程度忘れてから、ショック療法で全てを思い出すという方法がこの病気の治療法なのだそうだ。 全てを思い出せば完治。 二度とこの病気にかかることもない。 ただこの治療は、忘れないようにするのではなく、一度は忘れさせるのだという問題点があった。 今思い出しても手が震える。 でも、今日の悪化していってる様子を目の当たりにしてしまうと、そうせざるを得ないのかもしれない。 とても大切で大事にしたくて愛しているのに、一度は忘れてしまうなんてひどい話ではないか。 そう考えると悲しいのか辛いのか、この揺れる感情に振り回されてばかりだ。 ベッドの中、横で静かにしている勇利はどうやら寝れない様子で、ヴィクトルの頬をそっと突いてきた。 寝ているだろうと思ってやってきているのだから、そっとしておこうと寝たふりをしておく。 このまま勇利の症状が悪化していってしまったらどうなってしまうのだろうか。 ショック療法で全てを思い出せればいい、けれど思い出せなかったら。 勇利の口から、初めましてなんて悪夢のような言葉を聞かなければならないのかと胸を痛める。 痛むことばかりではあるが、見て見ぬふりをしてきた二つのLを一度得てしまったのだ、たとえ悪夢でも手放すなんてできない。 「ねぇヴィクトル、いつになったら僕食べる?」 小さな声が隣から聞こえてきた。 この瞬間、寝たふりをしようと決めたことを心底後悔する。 どうしてこうも心を掴まれるのだろうか。 バルセロナで勇利が瞳をキラキラと輝かせていたことを思い出す。 勇利から見る世界の色は、ヴィクトルを掴んで離さない。 星に心を掴まれる。 星が光って見えるのは燃えているからなのだそうだ。 ずっと絶えずに燃え続ける星。 消えないように、尽きないように。 記憶のことを考えて胸が痛み苦しくて、勇利のことを想って心が躍りだす。 考えと想いにぐるぐると思考が回り、気づけば朝になってしまった。 例え勇利が記憶をなくしてしまっても、勇利は勇利なのだから傍にいればいい。 色々な想いが巡り、寝れはしなかったけれど結論はいたってシンプルだった。 ショック療法をどうするかも既に決めている。 もともとは身体的に衝撃やストレスを与える治療法だけれど、勇利の体にそんなことをするつもりはない。 勇利にとってショックという意味ではあっているかもしれないヴィクトルが決めた療法。 これをすれば勇利なら必ず思い出してくれるだろうという確信だけはあった。 朝になってしまった為、同じくずっと起きていた勇利が朝食の支度をするのにそっとベッドを抜け出した。 家事に関しては、やれる方がやるという曖昧なルールになっているため、今日は先に起き上がった勇利が朝食を担当することになる。 ヴィクトルが先に起きることが多いため、勇利が朝食を準備するのは珍しいほうだった。 隣から勇利がいなくなった今、寝たふりをする意味もない。 ゆっくりと起き上がりリビングへと向かう。 「おはよう」 起こしにきたのか、リビングに辿り着く前に勇利と遭遇することになった。 「おはよう勇利」 挨拶をかわすいつもの朝。 微笑む勇利はヴィクトルの髪を撫で、背に腕をまわしてきた。 「ねぇ勇利、昨日何食べた?」 当たり前のように続くこの言葉。 また忘れたのなんて苦笑と共に言葉が返ってくればいい。 しかし、今日はいつもと違った様子で、勇利の口から言葉が放たれることがない。 「勇利……?」 いつも通りの返事を聞かせてほしい、もう飽きたなんて言わないで。 「ごめん、何だっけ?」 けれど、返ってきた言葉は残酷で、身動きのとれない牢に閉じ込められた気持ちになる。 ヴィクトルは目を見開き驚いた表情を見せ、震える声で言葉を紡いだ。 「え、どうしよう……勇利が覚えていないのは困る」 たかが夕飯のメニューだ、困るなんてことはない。 もっと違う困りごとだ。 そんなヴィクトルの気持ちは勇利に届いていないだろう。 勇利は困った表情を見せてくる。 「えと、じゃあ今日の予定は?」 「多分何もなかったと思ったけど」 寝不足で頭が働いていないのか、それとも症状の悪化が原因なのか。 勇利は食卓からリビングへと足を運び、テーブルの上に置いてある手帳を開いて予定を確認していた。 何もなかったと口にした言葉は間違ってはいなかったようで、ホッと安心した表情を見せる。 ヴィクトルは勇利のあとを追いリビングへ向かい、後ろからそっと手を握り締めた。 「予定ないなら、病院……いく?」 「そうしようか」 病院へ向かう道中はずっと無言で手を繋いでいた。 勇利は落ち着きのない様子で何度も足元とヴィクトルを交互に見つめてくる。 ヴィクトルが病気になっていると勘違いをしているのであれば、こうなるのも分かる話だ。 むしろこうなってくれているのは嬉しいことだとも感じる。 昼過ぎに病院に着き、診察時間をただただ待つ。 「勇利、そんな顔しないで」 今にも死にそうな青白い顔に不謹慎ながら思わず笑みがこぼれてしまった。 勇利が病気なのだと自覚をしていたらこんな顔は見ることはできなかっただろう。 ヴィクトルが病気だと思っているからこそ出てくる表情だ。 辛く悲しいはずなのに嬉しい。 矛盾した感情が駆け巡る。 ヴィクトルの表情を見た勇利は、ぎゅっと手を握り返してきた。 診察の時間、何か変わったことはないかと聞かれる。 勇利はヴィクトルの症状が悪化してきたのかもしれないと伝えているが、それはそのまま勇利自身の症状の悪化だと医者には伝わることになる。 カルテに何か書いていた医者は、ヴィクトルだけに話があると言葉にして、勇利は待合室に戻された。 「落ち着きましたか?」 医者からの言葉に苦い顔をするばかりだ。 治療についての話が進み、やろうとしている療法をヴィクトルは淡々と話す。 それを聞いて、今度は医者がヴィクトルに掴みかかることになった。 「ふざけるなと言わなかっただけ、貴方は医者なんだろうね」 ヴィクトルの言葉にそっと医者の手は離された。 勇利に自覚させる方法は簡単だ。 そのまま真実を話せばいい、嘘偽りなく。 自覚したからといってすぐに記憶が失われてしまうわけではない。 ただ、いままでよりも症状の進行が早くなるだけだ。 そしてある程度忘れてしまってから、思い出してもらうただそれだけ。 「二人とも……忘れないことを祈ります」 医者からの言葉にヴィクトルは静かに頭をさげた。 本来の療法ならば、この病院に通い続けるのが正解だろう。 身体的に与えられる衝撃がどういうものかは想像できないけれど、スケートをする身であるならばあまり歓迎はできない。 ヴィクトルが考えた療法は、身体的には影響はない。 勇利にだけ、勇利だからこそ効く療法だ。 診察室から出ていくと、うな垂れている勇利の姿が視界に入った。 「治療法が見つかったよ……」 肩に手をおいて声をかけると、勇利は不安そうに、でも驚いた表情で見つめてくる。 覚悟は決めた。 どうすれば治るのかという話は勇利に直接できないままではあるが、ユーリに頼みごとはして、医者にもこうするのだと話をして決めたのだ。 病院に着いたのは昼過ぎだったが、帰る頃には夕方になっていて空には星が薄ら見え隠れしていた。 行きと同じように無言で手を繋いだまま進んでいく。 治せると信じているけれど、やはり忘れられていく過程は嬉しいものではない。 気分はどんどん沈んでいく中で、勇利は治療という言葉を聞いてホッとしている様子だった。 「大丈夫だよ、大丈夫……お守りで繋がってるよ」 沈んだ様子を見かねたのか、勇利はヴィクトルを抱きしめて安心させるように声をかけてきた。 たとえ忘れてしまっても、この指輪が繋がりを切りはしない。 自分の右手を見つめ指輪を確認したヴィクトルは、小さく深呼吸して言葉を放つ。 「思い出せるまでじゃなくて……思い出しても、傍にいてよ」 深呼吸はしたけれど、伝える声も言葉さえも震えてしまう。 「うん、傍にいるよ。 忘れてしまってもヴィクトルはヴィクトルだから」 忘れないでほしいと思うのは、願うのは当たり前だ。 それでも、忘れてしまった時に関係がなくなるわけではない。 ヴィクトルは勇利をきつく抱きしめて耳元で囁く。 「違うんだ」 「え?」 ヴィクトル・ニキフォロフをこんなに振り回すのは勝生勇利だけ。 この行動の意味に気づいた時の勇利を想像して、自然と頬がゆるんだ。 「いっ……」 ヴィクトルは勇利の耳を強めに噛み、傷をつくる。 痛みにより腕から抜け出そうとしていた勇利を離さないようにして、傷口を舐めていく。 発言も行動の意味も分からずにいた勇利に、ヴィクトルの声が静かに届いた。 「違うんだよ勇利……忘れていってるのは、キミの方なんだ」 腕の中で輝く星に三回願いを唱えよう、それが叶うかどうかは誰にも分からないけれど。 |