天使の遊び -2-
声も思いも届かない、届いて欲しいと願うけれど真実を告げるつもりはない。 何にも興味を示さず面倒だと全てを投げていたルシフェルが ヒトの子に興味をもったのだという噂が流れた。噂といっても明確でない話ではなく真実なのだが。 行方不明になったサマエルの降格に役職剥奪、それを他の天使たちに知らせた後 ルシフェルは二つの部屋を行き来するようになった。 一つは、ヒトの子イーノックの部屋。もう一つは大天使ラファエルの部屋。 本来ならばサマエルの件を神に告げなければならないところだが 神に告げるという行為で、現在のイーノックの体調を皆に知らせる事になる。 折角、神が動いて評議会の者たちを黙らせる事ができたというのに イーノックが耳も目も喉も不調だという事が公になってしまうと 会議に来なかったという事は不問にされても書記官という役職がなくなってしまう可能性がある。 神自身はおそらく、この出来事を既に知っているはずなので公式の場で告げなくても良いだろう。 「しかしだね、ルシフェル……神に告げていないという事は、次の評議会までには」 「分かっている……」 ラファエルの部屋、ルシフェルは壁に背を預けて話をしていた。 神が全てを知っていたとしても、評議会に参加していた天使たちが全てを知っているわけではない。 部屋の主であるラファエルもルシフェルから伝えられて知ったようだった。 本当は誰にも伝えるつもりはなかった。 天界の全てがイーノックに対して偏見を持っている訳ではないのだが ヒトの子という生き物が天界にいるという事が珍しいのだ。 何が起こるか分からない。それがずっと頭の中でぐるぐる巡っていた言葉。 地上を見渡せば沢山いるヒトの子の中で、何故神はイーノックを召し上げたのか その答えは出ないまま気づけば魅せられている自分がいる。 神に最も近いと呼ばれ、誰に助けを乞う事もなかったルシフェルが 心の底から助けて欲しいと願ったのは初めての事だった。 他の天使たちと関わる事すらしなかったルシフェルが 突然ラファエルの部屋を訪問してきたのは数日前の事。 何の用だろうとラファエルが疑問に思う中、ルシフェルは頭を下げた。 その行為に驚いた様子で慌てだしていたがその点は問題ではなかった。 助けてくれるのか、助けてくれないのか。ルシフェルの中での問題はそこだけだ。 「次の評議会までの間に、全てを治す事は不可能だ」 ラファエルの言葉に顔を上げた。 その言葉は、全てとはいわずとも治す力を貸してくれるという事なのだろうか 答えがハッキリとしていない今、何を言葉にしたらいいのか分からず戸惑っていた。 「貴方がこれほどまでに魅せられたのだ、助けるつもりではいる……けれど」 「時間がないという事か」 続けて告げられた言葉に助けるという一言が入っていて、正直ホッとしていた。 しかし問題はまだ残っている。 今回の評議会は初めての参加であり、神からの口添えもあった。 でも次に行われる評議会では、さすがに書記官としての仕事を行わなくてはならない。 癒しの力に長けているラファエルでも時間に関してはどうする事もできない。 「貴方の力でも、難しいのですか?」 ふとラファエルは思い出したように言ったのだが、ルシフェルは苦い表情を見せ俯いた。 時を操る能力は確かにある、生まれた時から授かった力だ。 その力を使えば全て解決する事も可能といえば可能なのだが、それだけはしたくなかった。 部分的にどうこうできるモノではないからだ。 時を戻すのならば相手の意思がしっかりしていない限り、記憶も全て戻ってしまう。 意思がしっかりしている相手でも、記憶の部分に関しては大丈夫だという自信はない。 幼いイーノックの時を戻すという事は、体調を元に戻せると同時に イーノックの中では支えてくれた天使となっているサマエルの事も 評議会の書記官になれたという喜びも何もかもリセットするという事。 サマエルの件は許せぬ事ではあったが、イーノックの中では存在が大きい。 後に真実を知って何を思おうとも、記憶から存在が消えるという事は望んでいないはずだ。 「難しい……だろうな、代わりに祝福でもなんでもするさ」 望んでいない事はしたくない。時を戻すことで誤解も恨みも何もかもなくなるのだとしても イーノックが望んでいないのなら、それでいい。それがヒトの記憶というものだと思っている。 「貴方の祝福ならば、喉ぐらい治りそうですが……目と耳は」 声はかろうじて出す事はできていても、目と耳は完全に機能が停止している。 治す事は可能でも時間がかかるという。 「……耳」 少し考えて、ルシフェルはぼそりと呟いた。 何を言う気なのだろうとじっとこちらを見てくるラファエルに、考えた事を告げる。 「耳だけに集中すれば、なんとかならないか?」 ルシフェルの言葉に一瞬戸惑ったラファエルだったが、可能だと小さく頷いた。 目と耳の両方を治そうとするから余計に時間がかかるのだ。 だったら一つに集中してしまえばいい。 「だが、目が見えなければ書記官としての仕事は」 「目は私がなんとかする、ラファエルには何の得にもならないが……」 すまないと頭を下げた。ラファエルに対しここまで願うのは最初で最後かもしれない。 プライドなどどうでもよかった。 イーノックの体調が全て元に戻った状態で、また微笑んでくれればいい。 例えそれが、ルシフェルに対しての微笑みじゃなかったとしても、それでよかったのだ。 「サマエル様…あの、今日も来ていただいて」 イーノックの部屋にやってきて、いつも通りの名で呼ばれる。 その名で呼ばれる事には慣れてしまった。 ずっとルシフェルの事をサマエルだと思い込み、出しにくい声を必死に出す。 その様子を見て苦笑いしか出来ず、少しだけイーノックが目が見えない状態でいてよかったと思ってしまった。 きっと見えていたら微笑んでくれる事はなくなるのだろうけれど。 「サマエル様……?」 いつもならばイーノックの手のひらに指を置き、文字を綴るところだが 扉の閉まる音を響かせルシフェルの気配を伝えただけで、手に触れるという事をしなかった。 イーノックはどうしたのだろうと疑問に思っているものの、嫌そうな表情を見せることはしなかった。 本当に信頼しているのだなと少し胸が痛くなる。 「貴方は、つくづく馬鹿だと思いましたよ」 「……ラファエルか」 部屋に入って、サマエルと呼ばれているのを聞いたラファエルは 数回互いの顔を見て呆れながら溜息を吐いた。 治療の為に初めてイーノックの部屋を訪れた訳だが、まさかこんな形になっていようとは思っていなかったのが本音。 ルシフェルの意思で頭を下げにきたのだけれど、少しぐらいイーノックが何か言ったのではないかとも思っていた。 「どうして、ルシフェル!」 イーノックは何も言っていなかった、言うはずがないのだ。サマエルだと思い込んでいるのだから。 それでは、今から行う治療もルシフェルが行う祝福も世話も何もかも 全てサマエルが行い助けた事になるのではないか。 得がないと言ったが、損得で考えてしまうならばルシフェルに得など……。 「耳が治った後で、その名は呼ばないでくれ」 ラファエルの肩を軽く叩いた後、イーノックの手に触れて癒しの治療の件を伝えた。 伝えてすぐイーノックは顔をラファエルがいるであろう方向に向ける。 どうやら入り口の方に居るという事も伝えたようだ。 耳が治れば、声も言葉も伝わるようになる。きっとその時に名を呼んでしまえばサマエルではないと気づくだろう。 どうしてなのだとラファエルはじっとこちらを見つめてきた。 ルシフェルはラファエルに背を向けたまま言葉を放つ。 「嘘をついた……些細な嘘だ、けれど」 イーノックの髪に触れ、頬を撫でた。くすぐったいと身を捩る姿を見て小さな笑みが自然と出てくる。 あの時ついた嘘は、おそらくイーノックにとっては大きな出来事だったはずだ。 小さな体でたった一人、天界にやってきたイーノックは 神に大事にされ、辛い悪戯はあったものの相手の天使を責める事もなく微笑んでいた。 その笑みが消えたのはあの嘘の時だけ。 天使にも負けぬあの微笑みが消え去るのは、ルシフェルの前だけ。 「こんな事では償いきれない嘘だ、体調が戻っても全てを告げるつもりはない」 ルシフェルの言葉にラファエルが表情を歪ませた。 例え些細な嘘をついて償いをしなければと思っていても、この状況が辛いのはルシフェルのはずなのに イーノックが微笑んでるのを見て幸せそうだったのだ。 その二人を見て胸が潰されるかと思うほど苦しくなった。 イーノックは、ルシフェルをサマエルと思い込んだまま祝福を受け癒しの力を受ける。 喉も、そして耳も次の評議会までには治るだろう。 「サマエル様、ありがとうございます……ちゃんと書記の仕事ができます」 ラファエルが色々考えている間に、ルシフェルは指で治療の事を伝えていた。 問題となっていたイーノックの体調はラファエルが助けると言った時点で解決をした。 喉はこのまま続ける祝福でどうにかなるとして、耳はラファエルがなんとかしてくれる。 目についても治療方法は考えていた。 少し正しい治療法とは違う形だが時間がない以上は仕方がない。 食事の準備をするとラファエルに伝え、治療を任せた状態で部屋を出た。 「ラファエル様、サマエル様は……どうかなされたのでしょうか?」 両耳に温かい光が集まる中、イーノックはおそるおそる口にした。 ラファエルが大天使だと伝えられた事と治療の件で対話するのが恐れ多くなっているようだ。 先程話していたルシフェルとは大違いだと笑みがこぼれた イーノックの手に触れて何故そう思うのだと伝える。 目が見えていない状態では、相手の表情を見ることはできない。 聞こえていないならば、声や言葉で判断することもできない。 ならば、何故そう思ったのだろうか。疑問は疑問で返した。 「様子が、気のせいならばいいのですが……」 望んでいた答えを貰うことができずに、イーノックはしょんぼりとしている。 気のせいならばいい、けれどサマエルの様子がおかしかったのがもし自分の所為であったら そう思うと気が気でないようだ。 しばらくして両耳に集まっていた光が弾け飛んだ。 「もう少しかかりそうだな……」 耳に関してはまだ少し時間がかかるようだ。 また明日も来ると指で伝え、ラファエルは部屋を出た。 部屋を出たルシフェルの向かった先は神が居る広間だった。 大天使の中でも許された者しか入ることの出来ない場所。 もちろん、食事の準備などで来た訳ではない。 この場に来るなど珍しいものだと声が聞こえてきた。 クスクス笑う声、何故来たなど分かっている癖に白々しいものだと思う。 「分かっているのだろう」 広間に声が響き渡る、足音を鳴らしながら中央に向かい歩き出した。 神の存在を肉体として確認した事はないので、実際のところこの広間の何処にいるかなど分からないが 入り口で話をするよりも、中央で話をした方が良いだろうと考えた。 「最初で最後、貴方は笑うかもしれないな」 小さく笑って俯いた。神の言葉は絶対だ…逆らうことなく逆らう事など考えもせず それが全てだと思ってきたしこれからもそうだと思っている。 ここに来た理由は逆らう為ではない。 神の笑い声が止まった。静かな時間、沈黙の時間だけが過ぎていく。 どれぐらいの時間が経ったのだろうか、広間全体がゆっくりと暗闇に包まれていくのが見えた。 否、広間が暗闇に包まれているのではない。 「あぁ……これは、有難うと言うべきなのかな」 ルシフェルの視界がゆっくりと閉じていく。 耳元に風が吹き、神はそっと囁いた。しばらくその瞳が見れなくなるのは残念だと。 何を馬鹿な事を言うのかとルシフェルは笑った。 評議会にも姿を見せず、この広間にも入れる天使は限られている。 まともに天使たちと対面する事もないのに、よく言うものだと。 しかし、そうは思っても感謝だけは常にしていた。今回の件に関しては特にだ。 ルシフェルの視界を闇が支配した、真っ暗の中で見れるモノは何も無い。 神はルシフェルを自室へと飛ばして広間の扉を閉めた。 「ったく、飛ばすならしっかりとして欲しいものだ」 気づいた時には自室へと飛ばされ、ベッドよりも数十センチ上に居た。 神の力がなくなると同時にベッドに落とされ少し痛い目にあう。 でも、飛ばしてくれた事はよかったと思っている。 今ルシフェルの瞳には光が入っていない、どこを見渡しても真っ暗闇だ。 後悔はしていない、どうせ時間が経てば戻るのだ。 ドタバタと足音が聞こえてきた、普段は足音をさせるような人物ではないのだから 相当慌てているのか驚いたのかどっちにしても面白いことだと思う。 扉が壊れるかと思われるほど勢いよく開いた。 そこには肩で息をしているラファエルの姿。ルシフェルはその姿は見えなかったが想像はついた。 「ルシフェルッ!貴方は一体何を…イーノックが私の部屋に来て目が見えるようになったと……」 ずかずかと部屋に入り、ベッドで横になっていたルシフェルの側までやってきた。 どうやら耳の治療の前に、目の方が解決したようだ。 「目は私がなんとかすると言っただろう、まぁ……正しく言うと私が何かした訳ではないが」 声がする方向から位置を把握し、そちらを向いた。 その様子を見て言葉を聞いたラファエルは、ルシフェルの胸倉を掴み起き上がらせた。 「無茶な事を……サリエルは微笑んでいたがミカエルは怒っていた」 「サリエルか、どうせ愛などと呟いているんだろう……ミカエルも知っているのか」 胸倉を掴まれても平然とした顔で言葉を交わす。 ラファエルの部屋に、サリエルとミカエルが揃っていた時にイーノックが来た。 そう考えていいのだろう、サリエルに関しては問題はないと思うが ミカエルが怒っているという点に関しては少々問題なのかもしれない。 「貴方が決めた事だ、誰も止めはしない……だが、イーノックが真実を知ったら望まない事だ」 苦しそうに表情を歪ませ、ラファエルは今にも泣きそうな顔を見せた。 止めはしないという、実際止めようとしても手遅れなのだが 息を切らしてまで必死になって何故来てくれたのだろう、そんなに話した事もなかったはずなのだが。 言葉が詰まり会話が途切れると胸倉から手が放された。 ベッドに転がり、ぼーっと天井を見つめる。 ラファエルは今、何を思ってどうしているのかすら把握できない。 聞こえてくるのは小さな呼吸の音だけ。目が見えないとは不便なものだと今更ながら思った。 「真実など知らなければいい」 「…………ルシフェル」 「真実の中でサマエルの件が一番大きい、彼の事を知ってイーノックから微笑みが消えるなど……私が気に入らない」 そう、自分が気に入らないだけだ。それ以外に何も理由はない。 「イーノックの治療が終わり次第、貴方も治療を受けていただく……ミカエルに殺されるのは勘弁願いたい」 ラファエルの言葉に怒ったミカエルを想像して笑った。 本気で怒ったら怖そうだと笑ったのだが、その笑いはラファエルの気に障ったらしい。 壊れるかと思われるほどの力で扉を閉めて部屋を去っていった。 イーノックの体に不思議な光が纏う。 目も見えずよく分からない状態ではあったが、何か温かいモノが体を包んだ事だけは分かった。 その温かいモノはしばらくの間イーノックを包んだ状態でいて だんだんと目元が熱くなっていく。 自分の体がどうかしてしまったのだろうかと、焦ったのだが時間にして数分。 体を包んでいた光が弾け、イーノックの視界が開いた。 「目が……」 眩しい光が入り込み、瞬きを何度もする。 慣れない光に目をぎゅっと瞑ったり開いたりして、ようやく見えるようになっていると分かった。 きっとラファエル様のお力だと思い、お礼を今すぐに言いたいとベッドを抜け出した。 ペタペタと素足で廊下を走りぬけ、普段なら部屋に向かうなど恐れ多いラファエルの部屋の前までやってきた。 扉をノックして返事を待つ。と言っても耳は聞こえない状態が続いている為 自分がイーノックだと声に出して扉が開くまで待った。 扉が開き姿を見せたラファエルは、目の前のイーノックを見てどうしたのだと頭を撫でた。 足を見てここで話すのは寒いだろうから中に入ろうと指で伝え、部屋に入る。 部屋の隅には見知らぬ天使が二人、壁に背を預けていた。 「あの、お邪魔でしたか……」 天使たちの方をチラリと見て、ラファエルに大丈夫なのかと問うと驚いた顔をされた。 イーノックの手に触れて、二人の天使の姿が見えるのかと伝えると言葉が返ってくる。 「あ、あの、ありがとうございます……ラファエル様のおかげで目が見えるようになったんです」 さすがだと微笑んだところでラファエルの動きが止まった。 しかし、イーノックはその止まった理由が分からずにいた。 本当に感謝しているのだ、それを伝えたくて急いできたのがいけなかったのだろうか どうして素直に喜べないような表情を見せているのか 戸惑っていたイーノックの肩に、ラファエルとは別の手が置かれた。 手の主の方を振り向くと見知らぬ天使の一人。 「貴方は……」 その天使も手に触れてイーノックに言葉を伝える。 私の事は気にしなくていいと、その目はラファエルが治したのかと。 天使はチラリとラファエルと見たが、ラファエルは小さく首を左右に振った。 しかしイーノックは元気よくそうだと答え微笑みながら感謝を述べている。 一体どういう事なのかと聞こうとしたが、その前にイーノックが話をしてくれた。 ここ最近体調が悪くなって評議会に行けなかった事、体調の悪化で目が開けず何も聞こえず声も枯れていた事。 そして喉の調子をサマエルが、目をラファエルが治してくれて耳もあと少しで治るのだと。 それはもう幸せそうに微笑んで教えてくれたのだ。 「……サマエルが」 呟いた言葉は聞こえぬイーノックには伝わらなかったが、イーノックは嬉しさで話が止まらなくなっているようだ。 「毎日、サマエル様がお部屋に来てくださって……沢山お世話に」 聞いていく中ありえない人物の名が出て、本来出なければならない人物の名が出ていない。 天使の声質が変わった。静かに怒っているような様子に何が悪い事でも言ってしまったのかとオロオロし始める。 それを見ていたもう一人の見知らぬ天使は、微笑みながら近づいてきて 怒っているようなもう一人の天使の肩をぽんぽんと軽く叩き 「愛にも色々形はある、素晴らしいものだね」 そう言いながら、部屋を出て行ってしまった。 どうすればいいのかとラファエルを見たり、もう一人の天使を見たりしているとラファエルが手に触れ言葉を伝えてきた。 本調子ではないのだから今日は帰った方がいいと……。 また治療に行った時にでも話を聞けばいいだろうと思い帰らせる事にしたようだ。 ラファエルともう一人の天使に頭を撫でられ、ゆっくりと頭を下げてイーノックは部屋を出た。 沈黙というのは時に心に刺さる攻撃みたいなものだという事を身に染みて思った。 部屋を出て行ったのはサリエル、会話の途中で全てを悟ったようだった。 静かに怒り出したのは大天使の一人であるミカエル、ルシフェルの弟でもある彼は サリエル同様、会話の途中で全てを悟り口に出来ぬ怒りが湧いてきていた。 「サマエルはもういない、ヒトの子の世話をしているのはルシフェル様だったはずだが?」 イーノックが去っていった扉の方を向いたまま、ミカエルの口から静かに言葉が放たれた。 ルシフェルの事を様付けにしている時点でかなり怒っていると判断する。 評議会を黙らせて、サマエルの件を片付け尚且つイーノックの教育係になったのは 上級天使たちの間では知られている事であった。 もっとも、ルシフェル自身が投げた書類で伝わった事なので知っているのは当然なのだが。 知っているからこそイーノックの言葉がどうしても気に入らなかった。 「それは言わないでくれ、ルシフェル自身がやっている事だ」 「……癒しの力はないのにどうして治せる?」 呆れたラファエルは額に手を当て息を吐く。 ミカエルは怒りが少しずつおさまってきたものの、苦い表情は変わらぬままだった。 癒しの力なしで治せる方法はない。薬を作れば可能かもしれないが時間がかかりすぎる。 何をした、何を考えどう行動したのか……嫌な予感が頭を過ぎった。 「ラファエル」 「分かってるから、そんな殺気立った状態で名前を呼ばないでくれ……」 ラファエルの名を静かに呼んだ後、ミカエルは部屋を出て行った。 本当に何をやらかしたのかと考えたが、考えるだけ無駄だ。部屋に直接行った方が早い。 深呼吸をした後、ラファエルも部屋を出た。 毎日来てくれていたサマエルが姿を見せなくなったのは、目が見えるようになってからだ。 ようやく姿を見てお礼が言えると思っていたのに、朝になっても昼になっても夜になっても サマエルの姿はイーノックの視界に入ることはなかった。 代わりにやってきたのは、治療をしてくれている大天使ラファエルだけ。 温かい光が両耳を包んで弾け、ゆっくりと良くなっていっていると伝えられる。 実際、耳の方は元に戻りつつあった。凄く遠くの方に聞こえるが、多少なりとも声が聞こえてきたのだ。 このままいけば、次の評議会には書記官としての仕事ができる。 サマエルにはお礼を伝える事ができるし、溜まっている仕事もこなすことができるだろう。 こんなに幸せが続いてもいいのだろうか……。 悪戯は辛いものがあったけれど、ルシフェルの件も片付いてはいないけれども それでも仕事が出来るという事はとても至福な事だ。 「あの、ラファエル様……」 「ん?」 今日の治療も終わり部屋を出ようとしていたラファエルを呼び止めた。 どうしても聞きたい事があったのだ。知らないのならば仕方のない事だが 知っているのならば教えてほしかった。 「サマエル様は……サマエル様はどうなさっていますか?」 「あ…サマエル、ね」 ここ最近聞くと頭が痛くなる人物名だ、ラファエルはどう伝えようかと悩んだ。 サマエルはもういないと正直に伝えるべきなのだろうが、そうするといつからいないのだとか いない理由はなんなのだろうとかまで伝えなくてはならない。 ルシフェルは真実を告げるつもりはないと言った。 それを聞いている以上は、ラファエルの口から何かを言うという事はできない。 「私は知らないんだ……体調が全て戻ったら、誰かに聞くといい」 きっと、知っている誰かが教えてくれると思う。そう思いたい。 おそらく誰もがルシフェルの事が頭を過ぎり、喋るという事はしないと思うが 「分かり、ました……まずは体調からですね」 残念そうに俯いたイーノックは、すぐに顔を上げてラファエルに対して頭を下げた。 部屋に一人きりになり、ベッドに寝転ぶ。 シーツを巻き込みながら転がり、サマエルに会った時の事を考えた。 体調を崩してからは毎日のように通って世話をしてくれた。 どれだけのお礼をすればいいのか分からない。 「それに……祝福まで」 部屋に来なくなるまで、祝福といわれた口付けはずっと喉にだけ与えられた。 日に日に治っていく喉に感動し、同時に何度も何度も感謝の言葉を伝えた。 それでも伝え足りない言葉は、どうしても直接顔を見て目と目があった状態で伝えたかったのだ。 しかし、イーノックの目が見えるようになってからぱたりと来なくなってしまった。 治療をラファエルに任せているからなのだろうか もう治ってしまえば毎日来る事もない、分かっていても少し寂しいものがあった。 それから治療は続いていくものの、サマエルが部屋にやってくる事はなかった。 ラファエルに聞いても知らないの言葉だけ。 他の天使に聞いても、知らない、分からないとしか言葉が出てこなかった。 サマエルの部屋の前に立ち尽くした日もあったが、部屋に鍵はかかったまま。 体調が回復しても、イーノックの視界にサマエルが映る事はなかった。 |