天使の遊び -3-
ベッドの上で転がり天井を見つめる。瞬きをして起き上がると入り口に羽が見えた。 「ラファエルか?」 「なんだ、もう見えるようになったのか」 入り口にいたのは、ルシフェルの治療に来たラファエルであった。 ルシフェルの目の治療はまだ続いている。 完璧に治療を終えるまで通い続けると言ったラファエルが、暇を見つけては部屋に顔を出す。 その後ろには毎回、彼が居た。 「ラファエル様。あの、治療は……」 ひょっこり顔を見せたのは、ゆっくりと成長を見せるイーノックの姿。 イーノックの体調が戻ってからいくつの年月が流れたであろう、天界の時間の流れは未だによく分からない。 目の治療は進み、ぼんやりとだが見えるようになってきた。 イーノックは書記官として仕事をこなす中、天界の多くの事も知るべきだと他の天使の手伝いまで始めた。 その内の一つが、ラファエルと共にルシフェルの治療にあたるという仕事だった。 仕事内容は目の治療が開始された後、治療の経過を記録するというもの。 嫌そうな顔をひとつも見せることなく仕事をこなしていく姿は、少し嬉しいものがあった。 「もういいようだ、あとは歩きだな……ルシフェル、面倒だからと飛ぶことばかりで」 羽を広げて飛びさえすれば、体より大きい羽が壁に触れて、体が壁にぶつかる事を防ぐ。 出し入れは大変面倒ではあるのだが、目の見えない間はこうした方が楽であった。 そうやって羽で飛び、移動を繰り返す内に歩く機能が衰えていく。 元々、天使に歩く機能など必要なかったのだから余計にだ。 多くの天使が羽を出し、少し地から浮いて移動をしている。 「歩きにはイーノックを付かせる」 「は?」 ラファエルの言葉に驚き、立ち上がろうとしてバランスを崩した。 立ち上がるには時間がかかってしまう。それでは歩くのも一苦労だ。 「分かりました、ルシフェル様がちゃんと歩けるようになるまで付き添います!!」 元気に返事をしたイーノックは、ルシフェルの片腕をぎゅっと掴んだ。 イーノックは、どこまでまっすぐな心を持っているのだろう。 仕事とはいえ相手はルシフェルだ。諸悪の根源だと思っているあのルシフェルなのに。 「ラファエル……どういう」 どういうつもりだと聞こうとしたが、ラファエルは既に部屋から出て行ってしまっていた。 後を追おうにもしっかり歩ける訳でもないし、羽を出して飛ぼうにもイーノックがへばりついている。 溜息を吐いた後、くっついているイーノックに離れるよう声を掛けた。 おそるおそる離れてルシフェルの目の前にきっちりと立つ。 自由にしたらいいと伝えるが、イーノックはその場から動く事はなかった。 ラファエルとイーノックが部屋に訪れる少し前、ルシフェルに直接書類が届く。 普段ならば評議会で大天使全員に渡るはずの書類、しかし今回の書類は違った。 ルシフェル個人宛に送られたものだ。内容はヒトの子の教育係の件。 現時点ではラファエルの仕事を手伝っているが、もう治療が終わったのならば イーノックをウリエルの仕事場へと送りたいという。 ラファエルは天界の中で癒しの力に長けている天使だ、仕事は癒しを中心とし建物内から滅多に出ない。 それに対して、ウリエルの仕事場はいくつかある天界への入り口の一つ 建物外であり少々危険が付き物だ。それに仕事内容が内容だけに問題もある。 生前に善行を行った死者たちを導き、下級天使へと生まれ変わらせてあげる事。 本人が望むのならば、もう一度ヒトの子の魂を与えることもできる。 ここまではイーノックにとってもよい刺激となるだろうし、勉強としてもいいかもしれない。 しかし、ウリエルはもう一つ仕事を行っていた。 悪行を行った死者たちの処分だ。 天界だから、天使だからといって全てが微笑ましく終わるものではない。 善い者には素晴らしき道を、悪い者には二度としないと思わせるような罰を。 辛い出来事があっても相手を許し微笑んできたイーノックには、少々辛いものがあるだろう。 それもまた勉強なのかもしれないが、ルシフェルは行かせたくはなかった。 勉強などどうでもいい、ただルシフェル自身が側にいたいと思っているだけだ。 ルシフェルは、書類をくしゃりと丸めてゴミ箱へと投げ捨てた。 「髪、伸びましたね……」 イーノックのしみじみとした声が耳に入ってくる。 最初に会った時は短かった髪がイーノックの成長と共に伸びてきた。 その間、歩く事をほとんどしてこなかったルシフェルは邪魔だと思っていなかったのだが 最近歩くようになって髪の毛が邪魔だという事に気づいた。 「あぁ、でも君の髪の方が」 イーノックの髪に触れようと手を伸ばした時、ちくりと胸が痛みを発した。 何が起きたのかとすぐに手を引っ込める。 それを見ていたイーノックは何をしているのだと疑問に思っているようだが 何が起きてどうして胸が痛んだのか、知りたいのはルシフェルの方だった。 「いや……今日はもういい、書庫に行くんだ。ラファエルのところに」 「ダメです!!」 羽を出さずともゆっくりとだったら歩けるようにはなった。 場所さえ把握しておけばいいだろうと場所を伝えて去らせようとしたが、イーノックは引き下がらない。 仕事はちゃんとしておきたいという事か。 イーノックが近づき腕を掴もうとしているのに気づいた。 今捕まってしまったら確実に一緒に行く事になるだろう。ルシフェルは慌てて部屋を出た。 しかし、相手は健康体のイーノック。こちらはゆっくりとしか歩けない状態だ。 部屋を出て数歩、歩き出したところでイーノックの手に捕まった。 「ダメですルシフェル様、せめて書庫前まで」 何が起こるか分からないと言われ、手首あたりをぎゅっと掴まれた。 名を呼んで放させようとしたが、また胸が痛みを発する。 片手を胸に当てて歩む足を止めた。どうしたのかと顔を覗き込まれたがルシフェルに答える余裕はない。 痛みは一瞬、続きもしないし死ぬほど痛いという訳でもない。 黙り込んでいると目の前でおろおろしだしたイーノックがルシフェルの裾を掴んだ。 「やめましょう……」 体調が悪いのだと判断したようだ。裾を握り締めたまま、動く様子はない。 しかしルシフェルは書庫に行くことをやめるつもりはなかった。 天界の中で一番落ち着く場所が書庫。本に囲まれた閉鎖空間。 書庫独特の匂いの中で、進んでいるのか戻っているのかわからない時間の流れ。 例えイーノックに止められても、今日はそこで過ごすと決めたのだ。 何故こんなにも必死に仕事をしようとするのか理由があった。 神に仕える身となったのはもちろんのことながら イーノックは、たった一人の天使の姿を見るために必死になっていたのだ。 ある日消え去った教育係。誰も本当の事を伝える事はなかった。 しかしそれが思い込みというものを生む。 自分が体調を悪くして仕事ができなかったからいなくなってしまったのだと。 天使でもなかなか与えられない大役を任せられたのに、期待に応えることができなかったから。 そう思い込んだ後、イーノックは休むことをしなくなった。 体調には気をつけているようだが、決して歩む足を止めることはしない。 ルシフェルは、その行為がどうしても気に入らなかった。 自分の為に動くのではなく、あの天使の為に動いているという事が あの天使を思っているという事がどうしても気に入らなかったのだ。 イーノックの手を振り払って、壁に手をつきながら書庫へと向かう。 振り払われた事で、止めてよいものなのかと不安そうな表情を見せたイーノックは それでもおそるおそる後をついてきた。 触れそうで触れない距離を保ちながら書庫の扉がゆっくりと開く。 ルシフェルは振り返ることができず背を向けたまま、イーノックが書庫に入る前に大きな扉は閉められた。 冷たい風がルシフェルの頬を撫でた。 書庫に入ってからどれぐらいの時間が流れたのだろうか 普段は時間を移動する身の為、時間感覚が少々狂っている。 風が流れてきた先の窓を見ると外は真っ暗闇。月の明かりだけが書庫を照らしていた。 読んでは積む事を繰り返した結果。窓際に高く積まれた書籍の山。 「よく仕事をするものだ……」 本日読んでいた最後の一冊を同じ場所へ積み、ルシフェルは立ち上がった。 積まれた書籍は全て違う類のものだが、唯一共通点がある。 同じ羽ペンで書かれた独特の天界文字。まだ慣れていないのが分かるイーノックの文字。 そろそろ自室へ戻ろうと歩き出し書庫を出た時、扉に何かが当たった。 「ん?」 何が扉に当たったのかと見てみると扉の前にはイーノックがいた。 寒そうに体を丸めて寝息をたてている。 扉が閉められてからどれぐらいの時間が経っただろうか、考えるだけで体が震える。 イーノックは扉の前にずっと居たのだろう。書庫の中で本を読み続けているその間も ずっとずっと、この扉の前で……。 震える手でイーノックの髪に触れた。胸が締め付けられる。苦しい。 どうして震えているのか、どうして苦しいのか分からない。 ただ、途轍もない愛おしさだけが溢れて止まらなかった。 「ん……さ」 「イーノック?」 寝返りを打ったイーノックの口から、聞こえるか聞こえないかぐらい小さな声が零れる。 何を言っているのだろうと耳を近づけて、ルシフェルは後悔をした。 「……さ、まえ…る、さま」 時折襲う胸の痛み以外とても平和な日々が続いた。 サマエルが居た頃、イーノックの健康状態が心配であったが今は誰も手を出す事なく イーノックは仕事をこなし、ルシフェルはそれを見守るという形でおさまっている。 問題は胸の痛み。何をしていてもどこでも急にくる一瞬だけの痛みは ラファエルの力でも治す事ができないと言われてしまった。 自分一人の時に起きる事ならば我慢すればいいだけの話になってしまうが、いつもイーノックが側にいる。 どんなに振り払っても、部屋に閉じこもっていても、イーノックは側に居続けるだろう。 側に居る理由は簡単だ。もう二度と同じような事にならないようにしたいだけ、もう二度と傷つきたくないだけ。 イーノックの寝言を思い出して吐き気がした。同時に胸も痛む。 「くっ……そ」 痛みが増す。胸に手をあて皺になるまで服を握り締めた。 治まればそれでいい、もうすぐイーノックが顔を出す時間。治まればいいのに 「ルシフェル…さ、ま?」 扉が開かれる音がした。その後すぐイーノックが慌ててこちらに向かってくるのが視界に入る。 すぐに治まるからと口にしようとしたが上手く言葉にできず、荒い息だけが口から出る。 イーノックが何か耳元で必死に言葉を口にしているが、ルシフェルには届かない。 掴んでしまえば折れてしまいそうな小さな手が背中をさする。 イーノックが何を言葉にしているか聞き取る余裕がないほどの痛みが続く。 いつもなら一瞬で終わっていた痛みが嘘のようだ。 「何……」 せめてイーノックの言葉だけでも知りたい。 けれど自分の耳に入ってくるのは、己の荒い息だけ。 口が動いているのを見る限り何か言葉を発している事は確かなのだが分からない。イーノックの言葉が分からない。 「ルシフェル様ッ…ルシフェル様!!」 口の動きをよく見れば、まったく違うはずなのに。 ルシフェルは、あの名で呼ばれているような気がした。 「違う……っ私は、」 サマエルじゃない。 ふっと目が覚めて最初に女性の細い手が見えた。 起き上がろうとして数センチ動いたところで、女性の手に顔を押されて戻される。 「寝ろ」 そう言いながら顔面を押したのは、四大天使の一人唯一の女性ガブリエル。 柔らかいベッドに身を沈めながら右手を自分の胸元へと運ぶ。 痛みはない。自分の身に何が起きたのかは分からないが、無事なのだけは分かった。 「イーノッ」 「黙る」 イーノックはどうしているのか聞こうとしたのだが完全に遮られた。 しばらく沈黙が続く。この沈黙が痛いほど胸に刺さるが、あの時の痛みに比べたら軽いものなのかもしれない。 上級天使の中でも四大天使と呼ばれる彼らミカエル、ラファエル、ガブリエル、ウリエルは 天界の中で一番怒らせてはいけない部類に入る。 現時点で、怒らせてばかりのような気もしているのだが。 その四人の長を勤めるのが大天使ルシフェルの役目。世話をしているというより世話になっていると言った方が正しい。 サマエルの件でミカエルとラファエルに心配をかけたが、今回はどうやらガブリエルに世話になるようだ。 「イーノックはウリエルの仕事を手伝う為に、部屋で支度中です」 沈黙を破ったのはガブリエルの一言。そういえば、次の仕事はウリエルの場だったような気がする。 行かせたくない、そう思っていたのに今はどうしたらいいのか分からない。 側にいない事を知り、ホッとしたような残念なような複雑な気分になった。 色々考える事はあるものの、胸の痛みはなくなった状態なのだから起き上がりたいと伝えるが ベッドのすぐ側で椅子に座ったまま動くことのないガブリエルは笑顔を見せた。 「ルシフェル様、寝る事も黙る事も出来ませんか?」 笑顔が眩しい。抵抗はやめて大人しくしていようとルシフェルは力を抜く。 大人しくする事で、どうして今こうなっているのだろうかと考える時間が出来た。 でも色々な感情が脳内を巡って、嘘から始まった事ぐらいしか思いつかない。 嘘をついた事を後悔などはしていない。 あの時、嘘をついた事でイーノックが辛い目にあったのならば問題だが 嘘をついていようとついていまいと、サマエルが居た時点で状況は変わらなかった。 変わったのはルシフェル自身に向けられるイーノックの感情だけだ。 あのまま感情を抑えて仕事ばかりするただの機械のような状態より、今の方がヒトの子らしい。 傷つく事も時に大切だというが、この場合は立ち直れるほど軽いものじゃないとルシフェルは判断した。 問題なのは、イーノックが全ての真実を知ってしまう事だけ。 例え嫌われても、どんな感情を向けられても伝えるつもりはない。 真実を全て知る事が良い事とは限らないから。 「胸の痛みをなくしたい?」 突然のガブリエルの言葉に、驚き上半身だけを起き上がらせる。 「原因は知っている、けれど治せるわけではない。今、感情的に動かなければ悪化する事はないわ」 自分でも分からない原因をガブリエルは知っていた。 早く教えてほしいとガブリエルの腕を掴もうとしたが、先にガブリエルがルシフェルの髪の毛を掴む。 引っ張られて痛みが走った。涙目になりながらガブリエルを睨むと彼女は笑っている。 「言ったでしょう、感情的に動かれたら困るから……動かない為の保険」 腕や服を掴んでも力では男性に敵わない。髪の毛ならば相手に痛みが伝わるし 何より少し伸びてきたルシフェルの髪は、腕や服よりも掴みやすかった。 ルシフェルが行なった事や、サマエルの件に関して神は何も言う事はなかった。 イーノックが誤解したまま過ごしている事も知ってはいるが、口を出す事はない。 四大天使は、この件に関して知っているうえでルシフェルとイーノックに接している。 ミカエルやラファエルは両方の気持ちを知り複雑な事情だと推察している。 しかし、ウリエルだけは違う。正しくいうのであればガブリエルも違う部類に入るのだが 二人はこのままではいけないと思っているようだ。 どんな形のどんな思いであれ、四大天使に思われている事は変わらない。 申し訳なさと嬉しさが混ざる中で、本題の痛みの原因の話に入った。 話を聞くほんの少し前までは、イーノックの代わりになったあれが原因で 目の治療の副作用かなにかかと考えていたのだが ガブリエルから出された言葉はまったく違うものだった。 「天使は何故生まれてくるのかルシフェルは知っている?」 何を言い出すのかとガブリエルを見た。痛みの話ではないのか、それとも関係しているのか。 「それぞれ役目を持って生まれてくる天使のほとんどが、神の創ったモノを愛す為にいる」 神の創ったモノを愛す為に生まれた天使は、あくまで神の創ったモノを平等に全てを愛す。 平等という事は偏りがなく差別もなく、みな等しく愛するという事。 神はルシフェルを創り、ルシフェルを愛する天使が四人。 その四人を愛する天使がまた生まれ、神は地上を創り地上にヒトを放つ。 最初のヒトの子は神が創り上げたモノであったが、ヒトはヒトと交ざりヒトを生んだ。 神が創ったモノでなくなった地上界には監視が必要だと、観察者と呼ばれる天使を生み監視を始める。 丁度その頃、不思議な事に監視すべきヒトの子を召し上げてきた神は ヒトの子を天界全ての天使に任せ、黙り込んでしまった。 何を思って召し上げたのかは分からない。 ただ、全ての始まりはそこにあった。 「で、それが私の胸の痛みとなんの関係が?」 ガブリエルの言葉はもちろん知っていた事だ、だからなんだというのだと問う。 その後、ルシフェルにとって重みのある言葉が放たれた。 「愛することは、平等でなくてはならないの」 貴方はイーノックを、他のヒトの子と平等に愛してますか? ピタリと動きが止まり、胸の鼓動が早くなる。落ち着いてなどいられない。 じっと見つめてくるガブリエルに全てを知られているようで、ルシフェルの両手が震えた。 そしていつもの痛みが襲ってくる。 震える両手を胸元までもっていき、服を握り締めて治まれと願う。 「その胸の痛みは、堕」 「違うっ!私は、ヒトの子など……」 「イーノックは!!ウリエルが連れて行きます……貴方から離します」 離す?何を、どうして?何故……。断片的な単語が脳内を巡る。 早く止めなくてはいけない、自分は苦しんでいる場合ではないのだ。 ルシフェルは胸の痛みを堪えながら起き上がった。 すぐにガブリエルがルシフェルの髪の毛を引っ張りベッドに戻そうとする。 「感情的に動かれたら困ると、追ってどうするっ……」 「どうするかなど……聞く方が間違ってる、離せガブリエル」 静かな怒りの声。ルシフェルの怒りに気づいたガブリエルの体が怯えた。 それでも離すわけにはいかないと片手で髪の毛を、もう片方の手で服を掴む。 「いいえ、離しません」 「離せと言っている……」 怒り声は低く響き、ルシフェルの背から羽が現れた。 十二枚。広がる音を響かせた羽はガブリエルの手とルシフェルの髪の間に広がり手が離れる。 同時に少し長くなっていたルシフェルの髪は、己の羽によって切られ短くなってしまった。 その場を去るルシフェルの背を見つめ、ガブリエルは宙に浮いた手をゆっくりと下ろす。 俯き唇を噛んだ。そして羽に切られたルシフェルの黒髪を見た後、その場に崩れ落ちた。 天界への入り口は沢山あるが、ウリエルが仕事をこなす場所は一箇所。 その場へ向かっているルシフェルは先程の言葉に胸を衝いていた。 平等に愛しているのか。そんな事、考えもしなかった。 他の天使と違う事を思って行動しているイーノックが気になっただけ。 種族が違うヒトの子は、神の気まぐれで召し上げられて天界の仕事をするだけの存在。 たまたま視界に入っただけで、特別に愛する事などない。 本当に? ガブリエルの言葉を何度も思い出し、胸が締め付けられ痛みに耐える。 力を使って移動するのが一番早いのだが胸の痛みで上手く使う事ができない。 せめて入り口の門が閉まる前に辿り着かないと、ウリエルは本当に引き離す気なのだから。 全てを平等に愛する下級天使と同じように、ルシフェルを平等に愛する四大天使 彼らは他の天使と違い特別な力を持っている。故に下級天使のようにただ愛するだけではない。 四人が平等に愛する事ができなくなるのならば、力を使い邪魔なモノは排除する。 ミカエルとラファエルは、このままでも大丈夫だと判断したとして 残り二人が駄目だと感じれば何かしら実行に移すだろう。 四大天使とルシフェルは長い付き合いだ。この状態から何を思いどう考えたのかは手に取るようにわかる。 考えた一つがイーノックを自分から引き離す事。 それがあって、だから直接書類が回ってきたのだ。評議会で渡せば良い書類が直接。 おそらくウリエルはイーノックの排除を考えた。 ガブリエルは、ウリエルと違いルシフェルが愛するモノを排除するという事が 己が思っている愛するという意味に反するのだと感じたのだろう。 ルシフェルを捉まえ少しでも時間稼ぎをする。その代わりに、排除ではなく引き離すだけにしよう。 そんな話にでもなったのだろう。胸糞が悪い。 ただ仕事だからという理由で離れていくだけならまだいい。終えれば戻ってくるだろう。 「違う……」 口に出た己の言葉が自身に早く行けと叱り付ける。 今回は離れていくのではない引き離されるのだ。次に会う事ができるのはいつになるか。 否、引き離された後で、会う事など出来るのだろうか。 天界の中心部から離れ、入り口へと到着した。 地に足を下ろし羽を仕舞う。周りを見渡すと覚えのある金髪が見えた。 「イーノック!!」 名を呼び近づく。振り返ったイーノックは手に色々な書類を持ったまま呆然と立ち尽くしていた。 「ルシフェル様?」 「帰るぞ、この門を越えると天界ではなくなる……危険だ」 イーノックの手をとろうとした時、門の方から声が聞こえてきた。 「貴方は……自分がどうなるのか分かっていて連れて行くつもりですか」 悲しく苦しそうな声、ウリエルの声がルシフェルとイーノックの耳に入る。 ルシフェルはその言葉を無視して、訳が分からずにいるイーノックの手を引いて去ろうとするが、それは数歩進んだ所で止まった。 「サマエルのようにはさせませんよ……」 ウリエルの一言は、引っ張られていたイーノックの足をピタリと止めたのだ。 振り返ったルシフェルに、いつもの痛みとは何かが違う胸の痛みが襲う。 やめろ。やめろ。そう口にしたいのに言葉が出てこない。 手が震えて上手くイーノックの手を掴めない。 「サマ…、様が……な」 イーノックの声がハッキリと聞き取れなくなった。 目の前で書類が地に散らばる。ウリエルから何を聞いたのかは分からないが、イーノックは書類を落とした。 もう何も言葉が聞こえてこない。 始終表情を歪ませていたウリエルはイーノックの手を引き背を向ける。 ルシフェルは膝が抜けて地につき、散らばる書類に皺をつくった。 今度はいつ会える? いつになったら声が聞ける? 天使は全てを愛する為に生まれた? 嘘ばかりだ、愛など夢幻と消える。 書類の文字が視界に入る。書庫で見たあの時の文字と同じ。 夢というなら見たくなかった。幻というならば消し去りたかった。 何故、神は召し上げたのか。何故こんな気持ちが心に巣くうのか 俯いたルシフェルの頬に伝う一滴に書類の文字が滲んだ。 |