天使の遊び -1-


天界に珍しくヒトの子が召し上げられた。
見た目はそう天使と変わりはなく羽があるかないかの違いぐらいで
特に気にもしなかったし、他の天使たちも最初は興味を示したものの
時が過ぎるとヒトの子が居るそれが当たり前となった。
まだ小さい子供だというのに、ヒトの子は与えられた仕事を素直に行っていた。
天界の言葉を覚える事からルールを知る事、庭の手入れから動物たちの世話まで
嫌とも面倒だとも言わず、幸せだと言いながら笑顔を見せる。
それが続くとちょっとした悪戯も発生した。
天使たちがヒトの子が世話をしていた動物を逃がすという小さな事件だ。
やんちゃな事をするものだと、逃がしている様子をルシフェルはじっと見ていた。
止めようと思ったりもしたが少しだけヒトの子がどういう反応をするのかが気になった。
気に入っていた鳥を逃がされたのを見て、止めなかった事を少し後悔したが
別に飼っていたわけではない。
庭が見渡せる通路からぼーっと見ていると、ヒトの子が視界に入った。
逃げたと知ったヒトの子はどうやら飛び起きて庭に来たようだ。
履物をする余裕もなかったのか素足で、髪も息も乱れて慌てているようだった。
庭の隅で天使たちがクスクス笑っている。
それを見ればなんとなく分かると思うのだが、ヒトの子はそれどころではない様子で
逃げた動物たちを必死に追いかけ始めた。
いくら天界の地といえど履物なしで走り回るのは危険だ。
確実に擦り傷はできる、そこから菌でも入れば炎症を起こす場合もあるだろう。
痛みもあるはずなのにヒトの子は走ることをやめない。
一匹、また一匹と捕まえて息を切らしながら必死になって
最終的に、ルシフェルが気に入っていた鳥以外はどうにかなったようだ。
動物を追うヒトの子を笑いながら見ていた天使の様子は
天使というより悪魔に近い気はしたのだが、ルシフェルは口に出すことはしなかった。

それから数日後、ルシフェルの部屋にヒトの子とその教育係の天使がやってきた。
「名は?」
「イーノックと……」
泣きそうな表情で部屋にやってきたヒトの子の名をルシフェルはようやく聞けた。
動物たちの中でも、ルシフェルが気に入っていた鳥を逃がしてしまった
おそらく戻ってはこないだろうし、戻ってきても一度逃がした責任がある。
だから直接謝罪したいのだと他の天使に頼み込んでここに来たらしい。
頼み込んで来たわりには、部屋に入る時はおそるおそるであったし
入ってきた時から泣きそうな表情は変わらなかった。
一緒に居た教育係の天使にさがれと命令し部屋を出させ、ルシフェルはイーノックと二人で話を始めた。
「本当に、申し訳御座いませんでした」
深々と頭を下げたイーノックを、ルシフェルは黙って見つめた。
動物たちが逃げた原因を知っているだけに、この謝罪がどうしても納得いかない
天使たちが逃がしたと知らなければ納得もいっただろう
時には失敗もあるし泣く事もない、素直に謝罪した事で反省し今後気をつければいい
こんな当たり前の言葉もかけることができるだろう。
しかし、ルシフェルは唯一全てを見ていたのだ、かける言葉が見つからない。
「ルシフェル様……?」
「イーノック、君は自分が悪いと……そういうのだね」
一瞬、部屋に沈黙が訪れた。
即答できないところを見ると、イーノックも原因は分かっているようだ。
しかしイーノックはルシフェルに対して何も言うことはなかった。
謝罪だけを口にして頭を下げるだけで、天使たちの事は何も言わない。
ヒトの子には怒りとか悔しさなどという感情はないのだろうか
常に笑顔を見せ微笑み、泣きそうな表情は見せるものの他の感情がいまいち見えない。
ルシフェルの中でちょっとした興味が湧いた。
たまたま見かけたりするだけでそこまで興味があるわけでもなかったのだが
どうしても奥に仕舞い込んだ感情が見たくなった。
「私だ」
「え?」
意味の分からない発言に、イーノックは顔を上げルシフェルを見つめた。
「私が命令したのだ、動物を逃がして遊んでみるのもいいとね」
この一言でイーノックの表情が変わった。
泣きそうな表情で申し訳ないと頭を下げていた時の表情と違う。
少しの怒りと悔しさが混じったなんともいえない歪んだ表情。
イーノックのこの表情をすぐに見ることができ満足をした。
本来はこういう気持ちを持たねばおかしいのだ。
天使たちがした事であり責任や罪などはイーノックにはない。
なのに謝るなどしてほしくなかった。
ルシフェルが命令したという事は嘘だけれども
その嘘で感情が引き出されるのならば、たまには嘘も良いかと思えた。
「君の謝罪は受け取らない、悪いのは私だからね」
イーノックは何も言わず頭を下げて扉の向こうへと消え去った。
走り去る足音が聞こえ、悔しかったのだろうなとルシフェルは他人事のように思った。
どうせまた見かけたらちょっと様子を見るぐらいで、話す事もなく過ごしていくのだろう
そう考えるとたった一つの嘘は、なんでもないように思えた。
だがそれは次の日から一生分の後悔へと変わる。


小さな変化に気づいたのは、しばらく時が経ってからだった。
久しぶりに見かけたイーノックの様子が少しおかしかった。
真っ直ぐに歩けておらず、ふらふらしていて見ていて危なっかしい状態。
倒れそうになりルシフェルは慌てて駆け寄りイーノックを抱きとめた。
「どうし……」
「楽しいですか?」
どうしたのだと声をかけようとしたが、イーノックの言葉に遮られた。
「私には、天使様の遊びが分かりません……楽しいですか?」
何を言っているのだと口にしようとしたが
真っ直ぐ見つめてくる瞳がルシフェルを捉えて放さない。
外傷はなさそうなのだが抱きとめたことで触れた部分が熱い。
ルシフェルの中で嫌な予感はしていた。
また天使たちに何かされたのかもしれない
自分たちが何をしても全部ヒトの子が罪をかぶってくれるのだ
甘い蜜は一度吸ってしまったら後戻りはできない。
そして大きな問題がルシフェルにふりかかった。
天使に命令したのは自分だという一つの嘘がイーノックの中で真実として継続していた事。
何をされたのかはルシフェルには分からないが
ふらふらになって体に熱をもっているのも
全ての元凶はルシフェルなのだとイーノックは思っている。
抱きとめた状態で直接誤解だと言いたかった。
しかし、誤解だと言ってイーノックは信じるのだろうか……。
天界に来て一番最初にあった悪戯も、次もその次もきっと今も
ルシフェルが命令して起こっていると思っている。
実際ルシフェルが口にしてしまったのだ、例え嘘だとしても口にした事は戻らない。
少しして呼吸を整えたイーノックはルシフェルの腕から逃れるように立ち上がった。
頭をすっと下げて背を向けて去っていく。
イーノックの背を見て言われた言葉を思い出し、ルシフェルはその場でしばらく思考が停止した。
ちょっとした興味で出した言葉だったのだ。
イーノックから笑顔をなくす為についた嘘ではなかった。
怒りや悔しさという感情は、あの時あの場所だけのはずだったのに
「何故こんな事になっている……」
呟いた言葉は誰に聞かれる事もなく自分自身の心に響いた。

それからというもの、ルシフェルはイーノックが気にかかって仕方がなかった。
誤解されたままならそれでもいい。
本音で答えるならば誤解してほしくはないのだが、自分で蒔いた種だ。
問題はイーノックの体調の方である。
いつ見かけても最近はずっとふらふらしていて熱もある様子だ。
しかし仕事を休む事なく誰かに任せる事もしないでこなしていっている。
その成果もあってか、イーノックは召し上げられたただのヒトの子ではなくなった。
普通の天使よりも地位が上がり、大天使の中でもルシフェルしか許されていない神との対面すら許されるようになった。
元々、神が気に入ったという理由で召し上げたのだ。
神が直接話をするのも分からなくもない。
それがきっかけで、天使たちの悪戯はピタリと止まったように思えた。
下手に手を出せば神から直接罰が下る可能性が出てきたのだ。
天使は争いごとに首を突っ込まない限り早々死ぬことはないが、神から直接の罰となれば話は別だ。
体調不良ながらも仕事を行っていた事は不安ばかりであったが
これで大丈夫だとルシフェルはホッと息を吐いた。

しかしどれだけ時が過ぎても気になる気持ちが止まらない。
少し前まで悪戯をしていた天使たちを廊下で捕まえて話を聞く事にした。
ルシフェルの言葉にビクビクしながら答えた天使は
もうしていないという一言を言って頭を下げて去っていく。
これで分かった確認もとれた、もう天使の悪戯は止まったはずなのだ。
それなのに廊下で見かけたイーノックの表情が暗い。
嫌な事でもあったのか、それともまだ体調が戻っていないのか。
悪戯は止まったはずなのだから無理をしなければこれ以上体調が悪くなる事もないだろう。
声を掛けようとした、肩を叩いて大丈夫なのかと無理をするなと一言だけでも。
しかし胸のところまで上げた手がピタリと止まった
ふらついたイーノックを支えた人物が見えたからだ。
「あれは確か、教育係のサマエル……」
一番最初の悪戯の時、イーノックと共にルシフェルの部屋に来た人物だ。
教育係を勤め、おそらくイーノックが一番頼りにしている天使。
サマエルがイーノックの背を支え倒れるのを防ぎ、何か話をしている。
話をしている途中で暗い表情だったイーノックに笑顔が見えた。
宙に浮いた手の行き場がない。
「声もかけれない、か」
ぶらりと力をなくした手が下ろされ服に皺をつくった。


エルダー評議会。
天界の特務機関であり、出席できる天使は限られている。
評議会の参加どころか会議室に入る事さえ普通の天使では禁止されている。
そこで今夜議会が行われる連絡が入った。
今回の議会参加者に神はいないのだが、かわりに普段の議会にない名があった。
イーノック……書記官という役職付きで書類に名が書かれていた。
「さすがだな」
書類を見て笑みを浮かべたルシフェルは
いつもならば面倒だとサボる議会に顔だけでも出そうと考えた。
参加者のところに名が書いてあっても、神が参加しない限り
顔を見せることがなかったルシフェルが一番最初に会議室に顔を出した。
奥の席に座り、入り口をじっと見つめる。
一人、また一人と大天使や天使たちが入室してきたが
いつまで経ってもイーノックの姿が見えない。
「書記はまだか!」
「何をしているんだ……やはりヒトの子は」
評議会の始まる時間となっても、イーノックは姿を現さない。
最初は初めての参加だから緊張して寝れなかったのだろうと笑っていた天使たちも
時間が経つにつれてイライラし始め、最後には口々にヒトの子だからと言う始末。
そのイライラしている天使たちに苛つき始めたルシフェルは音を立て席を立った。
一瞬にして静かになる会議室。
ルシフェルの機嫌を損ねたのだと気づいた天使たちは、どうしようと顔を見合わせていたが
天使たちを素通りしてルシフェルは扉に向かって歩き出す。
「私が様子を見てくる、先に始めていてくれ」
一言と共に扉は大きな音を立てて閉まった。

廊下を歩くスピードが自然と早くなる。
イーノックに何かあった、そう違いないと思っていた。
どんな悪戯をされて邪魔をされても、体調を崩してだって仕事だけはこなしてきたのに
初めて大きな仕事を任されてイーノックがサボるなど考えられない。
「どうして来ない、イーノック」
簡単な理由ならそれでいい、評議会に参加していた連中に声をかければそれですむ。
違ったらどうすればいいのだろう、焦る気持ちが口に出てくる。
イーノックの部屋の前まで来て扉をノックした。
返事は返ってこない、部屋にいないのかと一瞬考えたが
考えるよりも行動する方が早いという答えに行き着く。
扉に鍵はかかっておらず簡単に入ることができた。
音を立てないようにそっと扉を開く、部屋に入ってみるが物音が聞こえない。
やはり部屋にいないのか、そう思いながら部屋を見渡すと
ベッドの側に倒れているイーノックを見つけた。
声にならない驚きに思考が停止する。
しかし停止している場合ではない。
天使と違ってヒトは弱い生き物だ、何かあってからでは遅い。
すぐに側に駆け寄りイーノックの体の向きをかえて起こした。
「起きろッ……目を」
あまり体を揺らす事は危険だと考えたルシフェルは、頬を軽く叩き様子を見る。
少しして服を引っ張られる感覚が伝わってきた。
「……あ」
イーノックの声が聞こえる。
ルシフェルの服を引っ張っていたのはイーノックの手だった。
安心したのも束の間、声は出しているし手や体も動かせているのに目を開くことをしない。
「あの、スミマセン……議会は」
目を開けない状態、かろうじて出ている小さな声での言葉は仕事の事だった。
どうしてこんな状態になっても仕事の事を気にするのか
考えれば考えるほど胸が苦しくなり、イーノックをぎゅっと抱きしめた。
「議会の連中には言っておく……ゆっくり休め」
「議会は、どうなってますか、私は……」
伝えるように耳元で話をしたが、ルシフェルの言葉が届いていない。
「どうしよう、とても大切な仕事を任されたのに」
声も体調の影響を受けているのか、掠れていて必死に出した感じがする。
何度もルシフェルが声をかけて休めと言うがイーノックに届かない。
それに未だに目を開こうとしないのだ。
いや、ここまでくると開こうとしないのではないという事が分かる。

この先の事を考えるのが怖い。
目が開けない、声が届かない、声は掠れている。
そしてなにより熱をもった体。
「イーノック、目は…私の声は届いているか?」
ハッキリとした声で名を呼び問いかけるが、イーノックからの返事はなかった。
「あの……議会は終わってしまったんですね」
返事はなかったが、独り言が放たれる。
おそらく評議会は始まったばかりだ、終わる時間など決まっていない。
しかしイーノックは終わったと思ってしまったのだ。
「何故……」
ルシフェルの声は届いていないようだが、イーノックは言葉を放った。
「こんなに真っ暗な時間では仕方ありません……あの灯りを」
この言葉でルシフェルは全てを悟った。


口々に文句を言っていた評議会の連中を黙らせる事から始めなければならなかった。
イーノックの様子を見て、休養が必要だと判断し
役職をそのままに、自室で休ませる事を最優先させるとルシフェルは決めた。
誰が文句を言おうと黙らせるつもりであったが、どうやら先に神が動いたようだ。
そうなれば後始末は神に任せてしまえばいい。
ルシフェルは、すぐにイーノックの部屋に戻った。
イーノックの体は通常以上の熱をもった状態で、どうやらその熱が
目と耳と喉に影響を及ぼし、目は開かず耳は聞こえず声は掠れた状態となったようだ。
天使たちの悪戯は止まったはずだった、いや終わったのだ。
それは話を聞いたときの様子を見ていれば分かることであり決して嘘などではない。
しかし現に危険な状態になっているのは確かである。
どうしたものかと考えていた時、ベッドの方から起き上がる音が聞こえてきた。
様子を見に行くとイーノックは起き上がっていて、ふらふらしながらも歩き
ルシフェルの体にぶつかるとイーノックはルシフェルの服を掴んだ。
「あの、サマエル様……ですよね?有難う御座います」
イーノックの口から出た名に息が詰まる思いをした。
「それもそうか……」
イーノックからしてみると、ルシフェルがこうして看病しようとするはずはない。
何故ならこの体調を崩している原因はルシフェルにあると思っているからだ。
そしてサマエルの名が出てくるのも当たり前といえば当たり前。
彼はイーノックの教育係であり、おそらく一番信頼をしている人物だ。
「残念だが、私はルシフェルだ……サマエルではない」
「いつも食事まで用意してくださって本当、感謝ばかりです」
声が届かないのは分かっている。
けれども言わないでいる事はできなかった。
自分はサマエルではないと、ルシフェルなのだと……伝わる事がなくても。
しかしイーノックの一言、一言は胸に突き刺さってばかりだ。
「これもルシフェル様……かもしれません、どうしたらいいんでしょう」
目を開いていなくても辛い表情だという事がルシフェルにハッキリと伝わった。
「どうしたらいいのか、聞きたいのはこっちだ」
イーノック同様辛い表情を見せ、イーノックの両腕を掴み肩に額をのせた。
言葉で伝える事ができないのならば、触れるしかない。
「大丈夫です」
何を感じ取ったのかは分からない。
イーノックは相手がサマエルと思いながらルシフェルの頬に手をもっていき触れた。
「どうしたらいいのか聞いたのは私ですが、多分大丈夫です」
あの時からルシフェルに向けられる事のなかった微笑みがここにあった。
その現実が辛くて苦しくて腕を掴む力が強くなる。
きっと痛いはずなのに、イーノックは微笑んだままであった。

落ち着いた頃、食事にしようとイーノックを席に座らせる。
食事は倒れる前から置いてあったようで既に冷めていたのだが
今から作り直すのも時間がかかるので冷めた料理で我慢する事にした。
目が見えない今、食事をするのも大変だという事で
口元までルシフェルが食事を運ぶことにしたのだが、運ぶ途中で手が止まった。
「サマエル様……?」
自分で食べると言ったが、どうやら口まで運ぶことを選んだルシフェルは
指でイーノックの手のひらに物事を伝えた。
しかし、いつまで経っても料理が口にやってこない。
疑問を感じたイーノックの問いかけに、ルシフェルはすぐに指を使って答えた。
食事は中止、少し食材に問題があったようだと……。
「もっと早く食べればよかったですね、スミマセン」
作ってから時間が経ちすぎたのだと思ったイーノックは、しょんぼりしながら謝罪をした。
違うと言いたかったが、声に出しても伝わらないし指で伝えるほどの事でもない。
こんなに相手に伝える事が難しくて、この状態が辛いなど
嘘をついたあの時は想像もしていなかった。
イーノックの背中を無理矢理押してベッドに寝かせ、机の上に置かれた食事を見た。
明らかに普段天界で見る食事との違いがあったのだ。
そういえばイーノックはサマエルがいつも食事を用意しているのだと言っていた。
「この食材は、食べてはいけないものだろう……サマエル」
料理の一つに手を突っ込み、一欠けら握り締める。
食事を中止させた理由は、食べてはいけない食材を見つけてしまったからだ。
イーノックは、まだ天界の食について勉強はしていないはず
していたとしても調理されたものまでは判断つかないだろう。
体調を崩した原因はここにあるという事が分かった。
天界に召し上げられてからずっとついていた教育係、何が起きても味方でいて
おそらく誰よりもイーノックが信頼をしていたであろうサマエルが
こういう形をとるなどと、天界の誰もが思わない事であり
ましてや絶対的な信頼をしていたイーノックは疑う事すらしない。

分からない天界の言葉も教えてくれた、悪戯が起きた時もきっと慰めたであろう
ルシフェルに謝罪する時も側にいて、体調を崩し始めたら看病もしただろう。
イーノックは天界の中で誰よりも、もしかしたら神よりもサマエルを信じていたはずなのだ。
ルシフェルの中で怒りが沸々とわき上がってきた。
机の上の皿を全部床に落として、怒りを抑えきれないまま部屋を出た。


間に合わなかったという言葉をしみじみと感じたのは、これが初めてかもしれない。
怒りを抑えきれないままサマエルの部屋に向かったルシフェルだったが
扉を蹴り開け、中に入ってみたものの部屋は既にもぬけの殻だった。
議会では姿を見なかったし、天界のどこを探しても見つかることがない。
「サマエルッ」
ルシフェルは低い声で名を口にした後、唇を噛み握りこぶしを壁にぶつけた。
神に伝えようと考えたが大事になるのも問題だ。
とりあえず今はイーノックの体調を元に戻すことを考えなければならない。
落ち着く為に深呼吸をして、イーノックの部屋へと戻った。
部屋に入って最初に目についたのは、床に落として割れた皿を片付けているイーノックの姿。
怒りで床に皿を全部落とした時の音でベッドから起き上がってきたのだろう。
目が見えない状態なので、床に手をついて手探りで破片を探している。
「イーノックッ!!」
側に駆け寄りイーノックの手を掴んだ。
皿の破片で傷ついており血が流れ出ている。
「あ、サマエル様?汚れます、手を……」
また違う名で呼ばれ苛つきはしたものの、自分が苛ついてした事が原因で
手に傷をつけてしまったのだ。
これ以上、心も体も傷つけたくはない。
傷ついていない部分に指を置いて動かし、片付けるのは自分がすると伝えた。
ゆっくりと体を休めて欲しいと、何も考えず今は休んで欲しいのだと。
指の動きで文字を、言葉を伝えられイーノックはルシフェルの方を向き微笑んだ。
この微笑みはルシフェル自身に向けられたものではない。
サマエルだと思っているから出てくるものだ。
苦笑しつつイーノックをベッドに連れて行き、自分が落とした皿を片付けた。
部屋を出てからルシフェルは、書類を作り他の大天使が集まる広間に足を進めた。
広間についてすぐ、持っていた数枚の書類を床に投げる。
ひらひらと宙を舞った書類は床をすべり他の大天使の視界に入った。
「何の真似だ、ルシフェル」
「サマエルの降格書類と教育係の役職剥奪、そして私が教育係になるという書類だ」
床に落ちた書類を拾ってルシフェルに声を掛けたのは、大天使の一人。
姿が見えず消えてしまった以上、書類上だけでも何か罰をくださなければ気がすまない。
そう考えたルシフェルの行動は早かった。
「許可はいらないな、もう処理済の書類だ……ただ知らせようとここに持ってきただけだ」
大天使数名から止める声がしたが、ルシフェルは広間に背を向けてその場を去った。
これで、サマエルは役職付きでもなんでもないただの天使となり
イーノックに近づく事は許されなくなった。
例えイーノックが望んだとしても、新しく教育係となったルシフェルが会う事を許さないだろう。

恨まれるかもしれない……。
ただ誤解されるだけではすまない、ただ嫌われるだけではすまない。
それでも、例えイーノックが真実を知らなくとも
ルシフェルは自分自身が、サマエルに対して罰しないと気がすまなかった。
自室に戻ろうとしたが、体調の事が気にかかりイーノックの部屋へと足を運ぶ。
聞こえる事はないと思うが扉をノックしてから部屋に入り
ベッドで休んでいるだろうイーノックの側まで足を進めた。
「私の力を使えば、全て最初からやり直せるだろうが……」
近づいた事で目を覚ましたイーノックは、起き上がってルシフェルの方を見つめた。
ルシフェルの声は届いていない、それでもルシフェルは言葉を放ち続ける。
「恨まれても、望まない事をするつもりはない」
イーノックの頬を両手で触れた。
「サマエル、様?」
一番治る可能性があるのは、癒しの天使である大天使ラファエルに頼む事だろう。
気休めにしかならないであろうが、癒しの力があるのだと地上では言われている天使の祝福。
ルシフェルは耳、瞼、喉にそっと口付けた。
「神の祝福を……」