神様の仁王立ち


 特別、何かあるわけでもないのに、ぼーっとすることがある。
 どこでもいい、どこか一点を見つめて動くことなく、何も考えずにただ見つめているだけの時間。
 ふとした瞬間に周りをゆっくりと見渡してみたりもするのだけれど、何故ぼーっとしていたのかは自分自身でも分からなかった。
 考え事をしている時はまだいい。 コーチ料どんだけ高額なんだろうとか、この演技は好きそうだなとか……。
 頭の中で喜怒哀楽が渦巻いて、あっという間に時間が過ぎる。
 けれど、このぼーっとする不思議な時間は、困ったことに何もないのだ。
 何もない、考えてもいない為に何も得るものがない。
 気づいたときには時間が経っていて、でも何故こうなっているのかが分からないまま。
 この不思議な時間を、常にもったいないと感じていた。
 頻度はそんなに多くない。 本当に時々起こる不思議な現象だ。
「考え事?また失敗するよ」
 ヴィクトル・ニキフォロフの小さく笑う声が耳に入る。
 止まっていた時間が動き出したように、全身に血が巡る感覚が勝生勇利に起こっていた。
「今ジャンプ跳んでないし……考え事なのかな」
 心臓が止まっていたわけでもないのに、血がようやく通ったなんて思いながら、勇利は自分の両手を見つめて開いたり握ったりを繰り返す。
 しばらくそれを繰り返し、氷を蹴ってヴィクトルのいる場所へと向かった。

 ヴィクトルがコーチになってからの一年は、とても充実していて感情としては忙しい日々だった。
 考え事をする時間はあったけれど、ぼーっとする不思議な時間はまったくない。
 あの時間はもったいないと思っていたので、なかったことに少し安心していた気持ちはあった。
 それなのに、拠点をロシアに移して少し経った頃だろうか……。
 また不思議な時間を味わうことになる。
 昔は、部屋の天井やパソコンの画面を見つめたまま、不思議な時間に突入することが多かったのだけれど、今は違う。
 スケートを滑っている最中でも、この不思議な時間はやってくる。
 無意識に人は避けているようなので怪我に繋がることはないのだが、リンク上でそんな状態は正直危ない。
 しかし、こればかりは自分でコントロールがきかなくて困っているところだ。
「何を不安に思う?」
 ヴィクトルの声が沁みわたるように響く。
「不安?」
「そのしぐさといい、表情といい不安そうだ」
 リンクを上がる前にしていたしぐさだろうか、本当によく見ていると思う。
「……不安かも」
 あの不思議な時間は考え事なんだろうか。 この状態は、不安からくるものなのだろうか。
 自分のことなのに、自分がまったく分からない。
「ねぇヴィクトル……」
 スケート靴を脱ぎながら名前を呼ぶものの、そこから先の言葉が上手く出てこない。
 呼んだ以上は、何か話さないとおかしいと思われてしまう。 続けなければ、上手く言葉を繋げなければ……。
 思えば思うほど焦り、頭の中で言葉が上手く整理されなくなってしまった。
 どうしようと思っていると、肩に手のひらがぱたりと置かれる。
 そこだけがじんわりと温かくて、涙が出そうだ。
「ゆっくりでいいよ……そうだ今日の夕飯何にしようか?」
 出そうになっていた涙が引っ込んだ。 優しい言葉のあとに、まさか夕飯の話をするとは思わなかったのだ。
 良いのか悪いのか、それでもヴィクトルの声を聞いていると心が洗われるようにすっきりしていく。


 ここのお店は美味しい。 店員の気配りもいいね。
 そうそう、劇場に行こうよ。 チケットなら任せて。
 あの公園は人も少なくて景色が綺麗なんだ。 今度散歩してみよう。

 外食いいのかな、カロリーオーバーしないように気をつけなきゃね。
 行きたいと思ってたんだ、チケットよろしくお願いします。
 へぇ、静かな公園はいいよね。 ぼーっとするにはちょう……ど、いい……


「勇利?」
 途中で言葉が詰まりかけた勇利に、ヴィクトルの視線が注がれる。
 ぼーっとする時間がこなければいいと思っているのに、何がちょうどいいんだろう。
 リンクを出て帰り道。 言葉も歩む足も止まってしまった勇利の表情は暗い。
「ぼーっとしたくないのに」
 本音がぽろりと口から出た。 その言葉を受けて、ヴィクトルの表情が少し歪む。
「勇利、帰ろう」
 ヴィクトルは勇利の腕を離さぬように掴み、少し強引にその場から連れ出した。
 足がもつれながらも、あとに着いて家へと向かう。
 ふと顔を上げると、ヴィクトルの大きな背中が見えた。

 ずっと、スケートの神様だと思っていた。
 長谷津にやってきてからは、神様なんて遠い存在ではなくなってしまったけれど。
 でもたまに、やっぱり神様なのかもと思うことがある。
 声を聞いて不安が洗われ、止まっていた場所から動かしてくれる。
 神様だと思ったり思わなかったりの矛盾した気持ちがぐるぐると巡りながら、この大きな背中の主に救われるのだ。
「いいんだ、ぼーっとしていいんだよ」
 家に辿り着き、ヴィクトルの声を聞きながら足早に玄関を通り過ぎる。
 リビングのソファに腰をおろされて、正面に向かい合う。 落ち着いたところで、二人揃って大きく深呼吸をした。
「でも……もったいない」
 考え事をしている時は、考えているからいいものの、ぼーっとしている時は何もない。
 だからこそ、もったいなく感じてしまい仕方がないのだ。
 時間がただ過ぎるだけの意味のないものだと思ってしまう。
「何もしない時間に価値がないとでも?」
 その言葉に、目を丸くした。
 気づいたら時間だけが過ぎているもったいない時間。 ただそれだけのはずなのに、ヴィクトルの言葉からまるで価値が生まれたかのように錯覚する。
「いや、違うな……何もしてないわけじゃない、ちゃんとぼーっとしてるじゃないか」
「ちゃんとぼーっとしてるって……」
 何を言っているんだと、笑いがこみ上げてきた。
 もったいないと思うのは、その価値を十分に生かしきれていないから思うのだ。
 ヴィクトルが言うように価値があったとしても、もったいないと思っている時点で生かしきれていない。
 ぼーっとする時間は、いまだにもったいないままなのだけれど。
 ヴィクトルからの言葉を受けたこの瞬間。 もしかしたら、もったいなくはないのかもしれないと感じて心が緩んだ。

「ヴィクトルは、本当神様だね」
 ぼーっとする原因は分からないまま、問題としては何も解決していないのだけれど、ヴィクトルから与えてもらう言葉は心を落ち着かせてくれる。
 何気なく口にした神様という言葉に、ヴィクトルは表情を変えた。
 不機嫌そうな表情。 見て分かるぐらいハッキリとした顔つきだ。
 悪いことを言ったつもりはないのだけれど、ヴィクトルは不貞腐れていて返事もしない。
 立場が逆転したかのように、今度は勇利が声をかけることになった。
「ヴィクトルー?」
「勇利はひどいね、俺は俺のままでいいって言ってくれたのに」

 神様なんて言葉は悲しすぎる。

 不機嫌そうな表情は一転、ヴィクトルの視界は今にも滲みそうになっていた。
 確かに、ヴィクトルはヴィクトルのままでいてほしいと伝えたことはある。
 それは今も思っていることで、間違ってはいないのだが。
「日本ではさ、自分を救ってくれる人を神様って言うんだ……だからヴィクトルは神様だよ」
 顔を近づけて言葉の意味を正しく伝える。
 神様だからといって、ヴィクトルがヴィクトルでなくなるわけではない。
「救った人が神様?」
「そう、ヴィクトルは神様……僕の神様」
長いまつげが上下に数回動く。 それと同時に、ふにゃっとチーズが溶けたような緩い微笑みを浮かべて、ヴィクトルは勇利の頬に手を添えた。
「なら、勇利は俺の神様だね」

 それはない。 なんて言ってしまうと、また表情が一転してしまうだろうか……。
 まだこの微笑みを見ていたいので、口は閉ざしたままにしておこう。
 不思議な時間の問題は、また後日。
 価値があるのかもしれないと思えば、ぼーっとする時間もありなのかもしれない。
 ただ、疲れているのが原因だと騒ぎ出した神様が、部屋から出さないと仁王立ちすることになるとは、この時の勇利には分かるはずもなかった。