捕食者の瞳
末裔、末の血統。 とある動物の末裔にあたる人間は、その動物になることができるという。 この世には不思議なことがあるもので、フィギュアスケート界には動物の末裔になる人間が多く、リビングレジェンドと呼ばれているヴィクトル・ニキフォロフも、とある動物の末裔であった。 「おお……」 「かみだよ」 「神様?」 「違う違う…おおかみ、ウルフ」 微笑むヴィクトルの前髪が風によりさらりとゆれた。 ヴィクトルが勇利に正体を話してから、更に接触が増えたように思える。 マーキングだよと笑っていたけれど、マーキングされないといけないことでもあるのだろうかと勇利は頭を抱えた。 動物の末裔にあたる人間がいるという話はよく聞く話。 特に驚くことはなかったのだが、驚かなかったことについて驚かれてしまった。 「でも何で今更」 正体を話すことにしたのだろうと疑問に思う。 末裔だからといって、特に何か問題があるわけではない。 正しくは問題はあるのだが、それは動物になった時に服が破れてしまうので替えの服がほしいだとかそういう問題。 動物の血に負けて理性をなくしたりすることはないし、襲われてしまうとさすがに命の危険はあるのだが、ヴィクトルがそんなことをするわけもなく問題にもならない。 あとあるとすれば、感情が高ぶる時に耳や尻尾が出てしまうぐらいの些細なことだ。 「これからロシアに行くのに話しておいた方がいいかなと思ってね」 ヴィクトルが競技者に復帰することを決めてから、話はあっという間に進んだ。 気づけば拠点をロシアに移すことになっていたわけである。 「そう?必要かな……」 ロシアに行っても基本的にやることは変わらない。 リンクメイトが増えるだとか、長谷津に居た頃より自由に練習ができない環境になるだとか、そういう点はあるけれど。 狼の末裔であるという話に、どう繋がっていくのかは不明だ。 「必要だよ、マーキング必須になるからね」 勇利の首元に顔をうずめたヴィクトルは、鎖骨に吸い付いて痕を残す。 「あー…はいはい、分かったから離れて」 ヴィクトルの頭をぽんぽんと叩き、首元から離れさせる。 どうやら堂々とマーキングしたい。 というヴィクトルの気持ちの問題、ただそれだけのようだ。 拠点をロシアに移す数日前、既にロシアに入国していた勇利はユーリと一緒にカフェで食事をしていた。 なにやらヤコフから伝言があるという話だ。 ちなみにヴィクトルはヤコフに捕まって身動きがとれないらしい。 ユーリと食事をしてからリンクにおいでと言われたので、ここでユーリと二人きりで会っていることはヴィクトルも了承済みだ。 「ユリオも狼なの?」 「あぁ、中型のな…あいつには負けるけど」 自分で言葉にしたのにユーリは悔しそうな表情を見せて飲み物をすすっている。 カフェでの会話はヴィクトルの正体から自然とユーリの正体の話に繋がっていた。 「あいつってヴィクトルだよね」 狼だという話は聞いていたけれど、その姿になったのは見たことがない。 ユーリが中型サイズということはヴィクトルは大型サイズなのだろうか。 正直なところ中型も大型もそこまで差はない気はしているのだが、そんなに大きいのだろうかと首を傾けた。 「お前ライオンのサイズ分かってるのかよ……」 「え、いや……ヴィクトル狼って聞いてるけど?」 狼、ウルフと言っていたはずだ。 何故ライオンのサイズの話になるのかが理解できない。 「超大型特殊のサイズはライオン並みだぞ」 「……それは、大きな狼だね」 動物の末裔には大きく分けて三種類の大きさがある。 小型、中型、大型。 どうやらヴィクトルはそれに当てはまらない、特殊の超大型のようだ。 狼は大きくても160センチメートルに対して、ライオンは250センチメートルもある。 大きさとしては違いがありすぎて引くレベルだ。 「そういえば伝言って?」 しばらくしてやっと本題に入る。 ユーリが仕方ないとため息を吐きながら話してくれたヤコフからの伝言は、あまり良い感じのものではなかった。 ヴィクトルと同じスケートリンクを使うのは避けたほうがいいという話。 「どういうこと?」 声が少し低くなった勇利に、ユーリは俺に怒るなと怒鳴ってくる。 各種の手続きは、ヴィクトルを通じてヤコフが行っていた為に詳しくは分からない。 けれど大丈夫だという話だったので拠点をロシアに移すことにしたのだ。 数日前にしてスケートリンクを使うことができないというのは大変困る。 「俺は伝言を伝えただけだっ!文句なら直接言ってこいよ」 この一言でカフェでの語らいは終了した。 あとで行くといっていたヴィクトルがいるリンクに向かうことになる。 そこにヤコフもいるだろう。 どういう意味なのかハッキリ聞かねばならない。 「フェルツマンコーチ、どういうことですか?」 「ヤコフでいい」 そう言われたあと、小さくため息を吐かれた。 「ここは……狼の巣窟だ」 その一言でどういう意味かを何となく察する。 あのヴィクトルだけでも手綱を握るのは大変な苦労だろうに、ロシア勢全員が狼の末裔とか気でも狂っているのだろうか。 本当に気苦労が絶えない人だと同情を寄せた。 その苦労の中に自分が含まれているとは思いもしていない勇利であったわけだ。 ヤコフと会話をしている途中ふと視線を感じて、勇利はリンクの隅にいた数名を視界に入れた。 こちらを見ながらロシア語で話している声が聞こえてくる。 ロシア語が分からないだろうと思っているのか声はそんなに小さくない。 東洋人は美味しそうだとか、ユーリが豚と言っていたのだから食べごろだとか色々だ。 同時にヴィクトルのマーキング付きだから手が出せないという話も聞こえてくる。 「カツキはロシア語が分かるのか……?」 「えぇ、少しぐらいなら」 話し声がする方向に視線を向けていたが、ヤコフの声にもう一度向きなおす。 「なら分かってくれると思うが……万が一があっては困るのだ」 動物の末裔は、その動物になることができる。 いわゆる変身というやつだ。 動物の本能に負けることはないが、動物本来の力を使うことはできる。 狼でいえば、人間に噛み付いて殺すこともできるということだ。 「大丈夫だよ、俺が守るから」 ヤコフと勇利のやりとりを聞いていたヴィクトルが、勇利の背にまわり後ろからぎゅっと抱きしめながら言葉にする。 堂々とマーキングしたいために正体を話したかと思っていたけれど、こういう意味もあったのかと思えた。 聞こえてくる言葉を鵜呑みにするならば、ヴィクトルのマーキングによって手は出されなさそうだ。 いくら狼でも超大型サイズであるヴィクトルのものに手を出したら危険だということだろう。 「いやしかしだな……守るにも限界が」 ヤコフの心配も分からないでもない。 たとえヴィクトルがマーキングをしていたとしても、それが抑制になるとは限らない。 狼に噛みつかれなどしたら人間は簡単に死んでしまう生き物だ。 襲われてしまった時のことを考えてしまうのも仕方のないことだと思う。 けれど、こんなことでヴィクトルがいるこのスケートリンクを使用できないなんて話は論外だ。 「ヤコフコーチ、大丈夫ですよ」 腰にまかれたヴィクトルの手を撫でながら、勇利はハッキリと言葉を放った。 大きなまん丸とした勇利の瞳孔がだんだんと細くなっていく。 瞳を見たヤコフとヴィクトルは息を呑んだ。 「カツキ……」 「勇利、もしかして勇利も末裔?」 この細くなっていく瞳孔は猫によくある攻撃態勢の時の細い瞳。 その瞳のまま、勇利は先ほど視線をこちらに向けてきた連中をじっと見つめた。 「カツキ、しかし猫であるなら」 狼には敵わない。 むしろ人間の時よりも厳しい状況になりそうだとヤコフの声が耳に届く。 しかしそんなヤコフの心配はよそに、状況は静かに変わった。 見つめられた連中の動きがピタリと止まり、後ずさりをし始めたのだ。 その様子を見ていたヴィクトルの瞳がうるうると輝きだす。 「いえ……大丈夫なんです、僕はヒョウですから」 「勇利最高だね!そういうの大好きだよ」 狼の巣窟に、一匹の黒豹が現れた。 リンクメイトとなった彼らは言う。 あれは捕食者だ、と。 |