仕返しは寝室へ


 ゆったりとした休日の真昼間。
 太陽が眩しく部屋の中を照らして、薄水色のカーテンが風になびいた頃。
「もう少し勇利は自覚をもった方がいい」
「はぁ?意味分かんないよ、何で僕が怒られなきゃいけないのさ」
 珍しく怒鳴り声が響き、キッチンの床に洗い立てのフライパンが散らかった。
 言い合いという名のケンカ、とても些細なことだったのだけれど、勇利はムキになって家を出て行く。
 フライパンは散らかったが暴力ごとなどはまったくない。 口での言い合いの果て、手が掠めた結果。
 勢いよく閉められた扉を前にして、大きくため息が漏れる。
 こうした言い合いは、一緒に暮らすようになってから稀にあることだった。
 仕方のないことではある、お互いが好きで一緒に暮らしてはいるもののヴィクトルと勇利は赤の他人。
 考えも想いもまったく同じということはない、違うのは当たり前のこと。
 頻繁にあっては困るが、想いのぶつかり合いでしてしまうケンカはお互いに許容範囲としている。
 どちらかが悪くても悪くなくても、三日で仲直りをすること。
 それが一緒に暮らすことになった時に、約束をした決め事だ。
 この決め事がある限り、多少のケンカは互いに気にならなくなった。
 ヴィクトルはキッチンに戻り、散らかったフライパンを片付ける。
 床とフライパンに小さな傷がついてしまったが、食器などではなかったため洗い直してしまうだけですんだ。

 ケンカの原因は、近くにできたケーキ屋にあった。
 マッカチンとの散歩途中に必ず通るその店には、勇利を狙っていた青年がいたわけだ。
 最初から狙っていたわけではないと思う、そうだったのなら散歩コースを変えさせていた。
 毎日通っていくうちに、勇利の魅力に吸い込まれるようになっていったのだろう。
 そんなホイホイと吸い込まれるものかと思うところではあるが、いい例が自分自身なのだから何も言えない。
 勇利が誰と友人付き合いをしようが自由だ。 ここロシアで友人ができることは良いことではあるし、ただ話すだけなら何も問題はなかった。
 青年の想いも個人的には不愉快ではあるが問題だとは思っていない。
 人を想うという気持ちは誰にも咎められてよいものではないからだ。
 不愉快なのは個人的なことなので、勇利が想われることそのものを問題にはしていない。
 ただし、人のモノに手を出すというのは問題にしていいのではないだろうか。

 想うことは自由、けれど手を出すなということだ。

 今朝、散歩から戻ってきた勇利の表情が硬かったために、どうしたのかと聞いてみたところから言い合いは始まった。
 状況は詳しく話してくれなかったが、手のひらにキスをされたらしい。
 それを聞いて勢いよく立ち上がったが勇利に肩を抑えられる。
 落ち着けとでも言うつもりだろうか。 それは少し無理があると自覚してほしい。
「ビックリしたけど、手のひらだし大丈夫だよ」
 なんて笑って言うものじゃないよ。 何故なら手のひらだから。
 勇利は意味を分かっているのだろうか、手の甲じゃない手のひらだから問題なんだ。
 これで唇にされたなんて言われた日には、大丈夫とか問題どころではなくなるわけだが。
 そこからは駆け抜けるように言い合いが続いて、冒頭に戻る。


 追いかけるにはまだ血が上っている、捕まえたところで二の舞を演じることになるのは明白だ。
 小さく深呼吸をしたあと、冷蔵庫を覗き込む。
 一緒に買出しにいこうと思っていたところだったので、夕食に使えそうな食材は一人分ぐらいしかない。
 今日帰ってくるかは分からないが、買出しは勇利が戻ってきてから行けばいいと考える。
 冷蔵庫にあるあり合わせの材料を鍋にぶち込んで、トマト缶で味付け煮込む。
 しばらく煮込んだあと火を止め、ふたをして家を出た。
 これから雑誌の打ち合わせが待っている、その後スケートリンクにも寄りたい。
 スケートリンクに寄った際には、もしかしたら勇利と話ができるかもしれない。

 と、出かける前は思っていた。
 打ち合わせが終わったあと、急いでスケートリンクに向かったがどうやらすれ違い。
 ため息をついたタイミングでスマホに連絡が入り、とってみれば聞こえてくるのはユーリの怒鳴り声。
「ケンカするのは勝手だけどな、俺を巻き込むな!」
 勇利はユーリと一緒に帰ったようだった。
「あぁ、ごめんねユリオ」
 ユーリの怒鳴り声を聞きながら、実は少し安堵していた。
 なぜなら家出先はユーリ宅。 見知らぬところではない。
 ユーリはこちらの関係を知っているし、たまに巻き込まれているので仲直りの決め事も知っている。
 巻き込むなと言いつつ、いつもちゃんと世話を焼いてくれる。 どちらが年上なのか分からないぐらい頼りになる男だ。
「何かお詫び持って行くよ」
「持ってこさせろ!ここに来てんのは」
 ぶつっと通話が切れた。 おそらく、ユーリの元にいる誰かさんが切ったのだろうと予想はつく。
 暗くなったスマホの画面を見つめ、苦笑いしかでてこない。
 このまま画面を見つめていてもどうしようもない為、電源を落として更衣室へと向かう。
 せっかく時間をつくってスケートリンクにきたのだから、滑らずに帰るという選択はない。

 思っている以上に体力を使い、くたくたになり帰宅。
 先に夕食を作っておいてよかったと思いながら、玄関の扉に手をかけたところで動きは止まった。
 かけていったはずの鍵が開いている。
 まさかと思い、慌てて駆けていけば、食卓で両手を合わせていた勇利が見えた。
「ごちそうさまでした」
 テーブルの上には煮込んでおいた一人分の夕食。 が、なくなって空っぽになっている鍋が置いてある。
「え?勇利……もしかして」
 いや、もしかしなくても夕食を食べた? 一人分しかなかった夕食を。
 声をかけるけれども返事は返ってこない。
 聞こえてきたのは背を向けた勇利の足音と、静かに閉まる扉の音。
 決して存在そのものを無視しているわけではない、視線は合ったりしている。
 けれど、声を聞かせてはくれないようだった。
 微かに鳴った自分のお腹の音を聞き、鍋の中身を見てみるものの何も残ってはいない。
 いくらなんでも、それはないんじゃないかな。
 がっくりと肩を落として、足元を見るとマッカチンが満足そうに寝ていた。
 それもそうだろう、マッカチンにはちゃんとご飯が与えられていたのだから。

 勇利がいなくて広く感じるベッドの上で、寝転がり考える。
 明日は取材が数件と、スケートリンクにも顔を出したい。
 冷蔵庫の中は空っぽで、買出しは保留のまま。
 となると、朝食はなく昼食は取材先でなんとか……夕食は、帰りにパンでも買って帰ろう。
 買出しも保留なら洗い物も少しだけ保留だ。
 一人の生活は慣れているはずなのに、何か上手くいく気がしていない。
 出会う前は一人で生活をしていたのだから、大丈夫なはずだ。
 勇利と出会った後も、仕事やスケートの関係で違う国に行き、離れることだって少なくはなかった。

 慣れているはずなのだ。

 ベッドだけではない、全てが広く感じるこの空間でヴィクトルは静かに目を閉じた。



 翌日、仕事をある程度片付けてスケートリンクに顔を出す。
 到着したところで勇利を探してみたが、既にユーリと一緒に帰ったところであった。
 なんてすれ違い、神様は本当に意地が悪いと思うね。
 どちらかが謝ればすむ話なのだが、今回は互いに謝るつもりはなく、決め事にしている三日目までの我慢になりそうだ。
 スケートを滑りながら、ヴィクトルが考えていることは勇利のことばかり。
 肩を落としたヴィクトルの背中姿を見ていたヤコフは、小さく溜息を吐いた。

 良くも悪くも勇利との出会いは色々なモノを変えた。
 溢れ出た気持ちをスケートで表現すれば賞賛され、今までになかった気持ちのブレが表現に出てしまえば、あれがリビングレジェンドなどとは笑わせると嘲笑されたもの。
 自身が思っている以上に影響というものは出てくるものだ。
 今までにない気持ちをどう伝えたらいいのか分からず、ヤコフに相談したこともあった。
 勇利のおかげで変わったのだと。 でも、変わったことで上手くいかないことも出てきたのだと。
 その時に返された言葉はたった一言。
「ばかもん、変わったんじゃない戻ったんだ」
 何が?なんて思ったところで、答えを教えてくれるはずもなく。
 呆れた顔を見せたヤコフを見ながら、頭を抱えたこともあった。

 答えはまだ見つかっていない。


 帰り道、焼きたてのいい匂いがしてくるパン屋へと向かう。
 ここでの買い物を逃したら二日連続で夕食を逃すことになる為、店が閉まる前に辿りつきほっと胸をなでおろした。
 どのパンを買ってもよかったのだが、店の中をうろうろして考えている間に勇利のことが頭を過ぎる。
 あれは勇利が好きそうなパン、前はこのパンを美味しそうに食べていたのだとか。
 自分の夕食用なのに、買ったパンは勇利の好物ばかり。
 抱えた小さな紙袋を見て虚ろな笑いしか出てこない。

 自宅に帰ってみると、昨日と同じく玄関のカギが開いていた。
「ただいま」
 声をかけるものの、返事はない。
 リビングに向かうと、むすっとした顔を見せている勇利が立ち構えている。
 無言でこちらに向かってきた勇利は、手に持っていた紙袋を勢いよく奪っていく。
 少し、いやだいぶ嫌な予感がする。
「勇利……もしかしなくても」
 袋の中から、ヴィクトルの夕食であるパンを取り出して、もくもくと目の前で食べだす。
 もしかしなくても全て食べてしまう気だ。
「ごちそうさま」
 空になった紙袋が床に落ち、昨日と同じく足音と玄関の閉まる音だけが響いた。
 ヴィクトルは額に手を当てて息をつく。 俯いたところで見えたマッカチンは、本日もご機嫌そうに寝ていた。

 いつもなら怒っている。 二日もご飯を奪われて、会話はゼロだ。
 お腹は小さく鳴っているし、冷蔵庫の中は相変わらず空っぽのまま。
 でも、少し言い過ぎたかもしれないという気持ちがどこかにあって、怒ることができずにいた。
 あの青年に手のひらをキスされたのも、勇利が悪いわけじゃない。
 ちょっとどころか、だいぶ自覚はしていないし油断まみれではあるが、悪いわけではないのだ。
 考え事をしているうちに、ふとヤコフの言葉を思い出す。
 勇利のおかげで変わったと思っていた自身は、変わったのではなく戻ったのだという。

 与えてもらったモノは二つのL、LIFEとLOVE。
 戻ったということは、最初からなかったモノではないということ。
 確かに二つのLはあった。 とても昔、もうあったことすら忘れてしまっていたけど。
 いや、正確には忘れてはいない、ほったらかしにしていた自覚はあったんだ。
 そう思い出した時、胸の詰まる思いで体が熱くなった。

 勇利は今までにはなかった新しい二つのLを与えてくれた。
 それと同時に、ほったらかしにしていた二つのLを結びつけてくれたんだ。
 ほったらかしにしていたモノを捨てて、新しく与えられて自身が変わったのではなく、昔からあったモノを救い出して今と紡いで戻してくれた。
 変わったところがまったくないわけではないだろう。 以前と違うのは判りやすいほど分かるもの。
 でも、変わったことより戻ったという事実があることに心が震える。
 どう伝えたらいいかなんて分かりきった答えだった。 そのままでいい。
 そのまま今想った気持ちを滑ればいい。
 ヤコフが呆れた顔を見せるのも今ならよく分かる。
「会いたいなぁ、勇利」
 明日は仲直りの日。 幸い、何もないオフの日だ。
 美味しいお肉を沢山買ってこよう、一緒に夕食を食べて、勇利と話がしたい。


 翌日、起きてすぐに買い物に出掛ける。
 ヴィクトルが一人で?と珍しがられたが、それも仕方のないこと。
 いつもは勇利と二人で来ることが多いからだ。
 頭の中でずっと考え続けていた勇利のこと、まさかこんなところにも影がちらつくとは思ってもみなかった。
 牛肉や玉ねぎをたっぷり購入し、今夜はビーフストロガノフに決定。
 太りやすい勇利にとって、思った以上にある量のお肉は贅沢品だろう。
 夕食を目の前にどんな表情が見れるだろうと想像して、ヴィクトルは鼻歌を歌いながら買い物を終えた。

 帰宅して冷蔵庫に食材を詰め込んだら、また出掛けることになる。
 仲直りをする前に、絶対しておかねばならないことがあった。
 ヴィクトルの足取りは決して軽くはない。 あのケーキ屋に向かうためだ。
 ケンカの原因となった青年には言わなくてはならないことが沢山ある。

 勇利の素晴らしさに気づくなんて見る目があるじゃないか。

 この一言から、ケーキ屋にて一悶着あったのだがそれはもういい。
 話し合いの結果、ケーキを買ってようやく帰宅。
 すでに時間はお昼を過ぎていたわけだが、帰ってくるとキッチンから何か焦げた臭いがした。
 慌てて向かうと、勇利がぼーっとしながら傷のついたあのフライパンで牛肉を焦がしまくっている。
「勇利!!」
 ヴィクトルの声にビクッと反応した勇利は、おそるおそるこちらを向く。
 その表情は暗く、悲しげに曇っていた。
「ごめ…っ」
「そのごめんは、ケンカについて?それともその肉について?」
 勇利の手からフライパンをそっと離す。
「僕のいない間に、こんないっぱいお肉買って……もう僕が食べちゃえって」
「思ってたなら何故焦がす……」
 ヴィクトルに返す言葉もなく、勇利は唇を噛みながら俯いた。
 ここで、言葉の選択を誤ってしまったら仲直りはどうなってしまうのだろう。
 過ぎる不安に、なかなか言葉が出てこない。

 どれぐらい時間が経っただろうか、視線が絡むこともないままキッチンで二人立ち尽く。
 その時間を崩したのはヴィクトルでも勇利でもなく、マッカチンの鳴き声だった。
「勇利」
 ようやく放たれる言葉。 ヴィクトルは買ってきたケーキの入った箱を勇利に渡す。
「これ……」
 渡されたものを見て、どこの店のものか分かった勇利は勢いよく顔を上げた。
「話し合いはしてきた……もう大丈夫だから、それユリオに持っていってくれる?」
 買ってすぐに持っていこうと思ったが、この役目は勇利に任せることにする。
 家に乗り込んできた本人に持ってこさせろというご指名があったはずだ。
 箱を受け取り小さく頷いた勇利は、ホッとした表情を見せて家を出る。
 その際に、ヴィクトルが声をかけた。
「勇利、夕飯は?」
「食べます」
 その一言は、家出終了の合図。



 その夜。
 テーブルの上にはたっぷりお肉が入ったビーフストロガノフが、目の前には引きつった顔の勇利がいる。
「どうしたんだい?」
「あの……ヴィクトル、このお肉」
 今朝買ってきた牛肉は、昼には全て焦げた肉へと変わり果てていて、フライパンごとそのまま放置されていた。
 そのお肉を丸ごとたっぷり入れてある。
 当たり前だが、焦げたお肉は美味しくない。
 更にいうならば、その肉によって料理のいい匂いと焦げた臭いが混ざり合って悲惨なことになっている。
「まだたっぷりあるからね、残さず食べようか」

 食べますって言ったよね?

 ケンカの原因になった全ても、お肉を焦がしたことも全部許すよ。
 だけど、やけ食いから二日も夕食を奪った謝罪は聞いていない。
 同じように食事を奪うことも考えたけれど、それじゃあ面白くないよね。


「たっぷり食べて、いっぱい運動しようね勇利」