Red fruits


 赤い果実には全ての感情が詰まっている。
 この赤い果実を地上界にいる人間たちに運ぶのが、天上界にいる者の役目であった。
 赤い果実が一面に実っている中庭で、果実を収穫している天使が一人。
 黒髪に少し赤みがかった茶色の瞳、白い布を体に纏ったその天使の名はユウリ。
「これぐらいかな……」
 両腕にいっぱい果実を抱え、そのまま背中に少し力を入れる。
 黒髪とは正反対な白い羽が背中から生えて翼となり、ユウリはその場で宙に浮いた。
「よいしょっと」
 更に背中に力を入れて、白い翼を羽ばたかせ中庭を飛び立つ。
 果実を落とさないようにそっと飛びながら地上界に辿り着いたユウリは、赤い果実を目的の場所へと置いていった。
 幸せそうに笑う人の側に、怒りをぶちまけている人の側に……。
 天使であるこの姿は人間に見られることはない。 その為、堂々と人間の目の前に降り立ち果実を置いていく。
 置かれた果実が消えてなくなると、近くにいた人間は色々な感情を記憶として心におさめていく。
 抱えていた果実がなくなっていき最後の一つまで減っていった。
「この子が最後か」
 役目も終わり早く帰れるとご機嫌なユウリは、鼻歌を歌いながら最後の人間へと近づいていく。
 銀色の長い髪に透き通った水色の瞳の少年が、果実を送る最後の人間であった。
 近づいて果実を置いてしまえば今日の役目は終わり。
「なかなかに下手くそな歌だね」
 やっと天上界へと戻れると果実を置こうとしたが、声をかけられたことにより手が止まる。
「え……っと、見えてる?」
 おそるおそる少年に声をかけると、少年は何を言ってるんだとばかりな表情を見せてユウリを見つめてきた。
 目が合うということは、やはり見えているのだろう。
「何が見えて何が見えないのか分からないけど、少なくとも白い布を纏ったコスプレ姿は見えてるよ」
「コスプレ……」
 人間には天使の姿は見えないはずなのに、困ったことになったとユウリは頭を抱えた。
 姿が見えているということは背中の羽も見えているということで、コスプレと勘違いしてくれたのが幸いというところだろうか……。
「僕に何か用?」
 少年は綺麗な笑みを浮かべ、ユウリに向かって手を伸ばしてきた。
 伸ばされた手はユウリの頬に触れ、少年の視線は顔からゆっくりとユウリの手元に移る。
「あぁ…えと、この果実をキミに届けにきたんだ」
「リンゴ?」
 突然現れた怪しい人物が怪しい食べ物を渡すなど、少年からしたら危ないことばかりなのだが、姿を見られてしまった以上こうするしかユウリには方法が思い浮かばなかった。
「突然怪しい人がこんなもの渡したらビックリするよね、食べなくていいから手に乗せて受け取るだけ受け取ってくれないかな」
 受け取ってさえくれれば、他の人間の時のように果実は消えてユウリの役目は終わる。
 姿を見られてしまったのは問題ではあるが、役目さえ終わればもう会うこともないだろう。
「いいけど、受け取ったらキミの名前教えて?」
 少年は果実を受け取り、ユウリに名前を問うた。
 これで果実さえ消えてくれれば。 そう思いながら少年の問いに答えることをしないユウリだったのだが、少し経っても果実は少年の手のひらから消えることがない。
「ねぇ、名前は?」
「どうして……」
 いつまで経っても果実は消えない。
 このままではユウリの役目は終わらず、天上界に帰ることもできない。
 果実を持った少年はユウリが纏う布を引っ張り、顔を近づけてきた。
「僕はヴィクトル、キミは?」
 受け取ったら名前を教える。 勝手にヴィクトルが決めたことだが、こういう状況になってしまっては仕方がない。
 ユウリはどうしたらいいのか分からないまま、小さな声で名を呟いた。
「……ユウリ」
「ユウリ!素敵な名前だね……ところで、このリンゴどうすればいいの?」
 ヴィクトルは果実をユウリに見せて首を傾げた。
「ど、どうすればいいんだろ?」
 消えるはずの果実が消えない。 消えない理由は分からない。
「うーん、じゃあリンゴをどうするかはひとまずおいておくとして、くれたお礼に服をプレゼントするよ」
「へ?」
「その布、ダサいよ?」
 ヴィクトルはユウリの手を掴み引っ張り歩き出す。
 温かい手のぬくもりを感じながら、ユウリはこれからどうするかを考えることにした。
 困ったことになったが、幸いヴィクトルはコスプレと勘違いしてくれている。
 勘違いしたまま服をプレゼントしてくれるようだし、羽を消してしまえば天使ではなくコスプレをした怪しい人止まりになるだろう。 その怪しい人を信じるというのも問題といえば問題なのだが。
 とりあえず、今ヴィクトルが持っている果実が消えてヴィクトルの記憶におさまりさえすればいいのだ。
 こうなったら近くで果実が消えるまで見守るしかない、そう決心をした。



 果たしてこの範囲は少年であるヴィクトルの小遣いの範囲なのだろうか。
 持たされた袋には大量の服や小物が入っており、その中には先ほどまでヴィクトルが持っていた赤い果実も入っていた。
 ヴィクトルはユウリの手をぎゅっと握ったまま、ご機嫌なのかスキップをしたりしなかったりで前に進んでいく。
 辿り着いたのは小さな一軒家。
「ヴィクトルの家?」
「そう、シニアに移行する頃には引っ越すつもりだけどね」
 リビングに通されたユウリは、持っていた袋をテーブルの上に置き、中に入っていた果実は袋から出して置いた。
「シニア?」
「あぁ……スケートをやっているんだよ」
 スケートという言葉は聞いたことがあるが、何のことだか分からないユウリは首を傾げる。
 その様子を見たヴィクトルは、そのうち見せると言って小さく笑った。

 買い物も終わり落ち着いたと思ったのだが、これからがユウリは大変であった。
 普段は飛んで移動している身であるユウリにとっては歩くだけでも大変なことで、買い物に体力を奪われ、袋から洋服を取り出してユウリに着せようとしてきたヴィクトルから逃げ回り、その後は家族の紹介だと言われてヴィクトルを見ると、後ろからマッカチンという名のプードルが走って追いかけてきたりした。
「っはぁ…はぁ……な、んなんだここは」
 結局、洋服を着てマッカチンとも遊ぶことになり、ユウリの体力は急激ダウン。
 肩で息をしていると、大人しくなったマッカチンはその場から去り、ソファに座っていたヴィクトルはクスクス笑いながらユウリに隣に座るようソファを軽く叩き催促していた。
「そういえばユウリ、このリンゴは結局何?」
「えと、よく分からないんだけど……渡してって言われて」
 テーブルの上に置いてある赤い果実、人間から見るとリンゴという物に似ているようだ。
 これを人間に運ぶのが仕事ではあるが、分かっていることはこの果実が消えると近くにいる人間の感情が記憶としてその人間に残るということぐらいだ。
 さすがにそれを言うわけにもいかず、分からないと答えるしかない。
「誰に?」
「分からないんだ」
 誰にと言われても答えようがないユウリは、記憶が曖昧だと誤魔化すことにした。
 出会いがコスプレしている怪しい人なのだから、これぐらい誤魔化したところでというところだろう。 
 ヴィクトルはユウリをじっと見つめてきたが、これ以上は何も覚えていないとしか言えず、その場の会話はそこで止まった。
 果実はテーブルの上から棚へと移されて、袋から出されていた大量の服が片付けられる。
「一人暮らし…してるの?」
「マッカチンがいるよ」
 ヴィクトルの言葉に、寂しくないのかなと疑問に思う。
 ユウリの前ではよく笑うヴィクトルだが、何を話していても少し表情が硬いところがあった。
  
 日も暮れて夕飯を共にし、色々な話で盛り上がる。
 スケートをやっているためか、その話題が少し多めだったが、分からないユウリにヴィクトルは丁寧に説明をしてくれた。
「こんなに笑ったの久しぶりだよ」
 ヴィクトルの表情はだんだんと和らぎ、ユウリの姿を見て微笑んでいた。
 どんな感情を見せてきても、やはり赤い果実が消えることはない。
 最初は果実のことを考えていたユウリだったが、ヴィクトルとの会話は楽しく、微笑んだ顔を見るのに幸せを感じ始めていた。
「楽しいなぁ、ねぇユウリ……一緒に暮らそう!」
「うん、いいね」
 ヴィクトルの提案にユウリは思わず良いという返事をしてしまう。
 果実は消えないし、もう少しいいだろう……この楽しさが消えなければいいそう思えた日であった。



 楽しい日々が続き、ある日スケートの大会が行われた。
 一緒に暮らすことを決めた日、丁寧に説明をされたユウリはスケートがどういうものかを知り、ヴィクトルの応援に来ていた。
 ヴィクトルが滑りだしてすぐ、隣に覚えのある天使が降り立つ。
「ユリオ……何、仕事?」
「あいつがスケートとやらの大会に出る度、運ぶ量が増えて困る」
 ユリオと呼ばれた天使は、金髪に澄んだ水浅葱色の瞳の持ち主。
 舌打ちをしたユリオの両腕には多くの赤い果実があった。
 ヴィクトルのスケートを見て心を震わせる客が多いのか、果実はあっという間に消えていく。
「お前はどうした?」
「あー…うん、実はさ」
 ユウリはヴィクトルの姿を視線で追いながら消えない果実の話をした。
 ユリオの腕からはどんどん果実が消えていくのに対して、ユウリの運んだ最後の果実はいつまで経っても消えなかった。
「ふーん、あいつには出てこない感情があるんだな」
「何言ってるのさ、ヴィクトルは笑ったり怒ったりもするよ」
「は?そりゃ楽しそうで何よりだな」
 一緒に暮らして月日はかなり経つ、共に笑い、怒り喧嘩だってした。
 出てこない感情なんてないだろうと思う。 思いたい。
 腕にあった果実は全て消え、ため息をついたユリオは翼を羽ばたかせる。
「早く戻ってこいよ、果実一つ配れないんじゃな」
 鼻で笑ったユリオにムカっときたユウリは、やってやろうじゃないかと意気込んだ


「ヴィクトル、好きな人はいないの?」
 やってやろうと意気込んだ結果、ユウリの口から出てきた言葉はこんな言葉であった。
 何の感情が出てきていないのか分からない為、やってやろうにも感情を少し揺さぶるぐらいのことしかできない。
「いるよ」
「え?」
 いないという言葉が返ってくるとばかり思っていたので、予想外の言葉に驚く。
「ユウリのこと、好きだよ」
 そう言葉にしたヴィクトルの表情は初めて見るものであった。
 少年らしく声を出して笑う時のいつもの表情ではなく、とても愛しいものを見るような優しい表情。
 その表情を見てユウリは心を掴まれる思いをした。
 感情を少しだけでも揺さぶろうなどということは初めから無理だったのだと思う。
 揺さぶられたのはこちらの方だ……。
「そっか……ありがとう嬉しいよ」
 例え真剣な想いでも、ユウリから返事は返せない。
 ヴィクトルとユウリを繋いでいるものは、あの果実だけなのだ。
 この時、どうしてヴィクトルが一緒に暮らそうと言ってくれたのかユウリは分かった気がした。
「ねぇユウリ……リンゴ、食べなくて正解だったね」
 ユウリの言葉を聞いてすぐ、ヴィクトルは話をまったく別のものへと変えてしまった。
 返事が返ってこないことを悟ったのだろうか。
 ごめんなさい。 何度も心の中で謝るユウリは、必死に笑みを作りヴィクトルとの会話を続けた。
「どうして?」
「だって、いつまでも腐らないって怪しすぎない?」
 ヴィクトルは棚に視線を向ける。 ユウリも同じく視線をもっていき、あの時からずっと置いてある果実を見て苦笑いをするしかなかった。
 そんな怪しいとハッキリ言ってしまうほど思っているのに、片付けないで置いていてくれる。
 まだ消えない果実。 何の感情が出てきていないのだろうと考えた。
 スケートで素晴らしい演技を見せ、日常で笑って泣いて、たまに喧嘩して怒って喜びあって、出てこない感情などない気がする。
「じゃあ、食べれるリンゴ買いに行こうよ」
 少し考えてすぐ、ユウリはもう考えるのはやめようと思い始めた。
 心を掴まれて、想う気持ちは色々あって、それでも返事ができない。
 果実が消えるのが目的なのに、これ以上考えていくと消えなければいいとさえ思ってしまう。
 
 人があふれる街中、リンゴが入った紙袋を抱えて歩く。
 リンゴを買うところまでは会話が続いていたのだが、買ったあとは互いに何も喋らなくなっていた。
 返事が返ってこない気持ちと返事が返せない気持ち。
 もやもやしたものを二人とも抱えて、何も言葉にできない時間ができてしまった。
 何か話題を見つけないと。 そう思い周りを見ていると、ふと目に留まったアクセサリーのお店。
 じっと店を見つめているユウリを見て、ヴィクトルはユウリの手を引き店の中へと入っていった。
「食べれないリンゴもいいかもね」
 沢山あるアクセサリーの中で、見つけたのはリンゴの形をしたペンダント。
 おそろいにしようとヴィクトルはそれを二つ購入した。
 店の外に出てユウリの首にかけ、自らもペンダントを首にかける。
 ユウリは涙が出そうになり堪えるのに必死だった。
 たまたま果実を配る相手がヴィクトルだっただけで、ユウリからは何もあげれるものはないというのに、ヴィクトルは出会ったときから何でも与えてくれる。
 服や物、形あるものから居場所も、楽しさも、形ないものまで。

 いったい、自分は何をあげられるのだろう。

 考えても答えはでないまま、二人は家路についた。



 ロシアからブルガリアに移動してきたユウリは、スケート会場の隅にいた。
 大きなスケートの大会があるということで会場に来たはいいものの、ヴィクトルの出番までは暇をもてあましていた。
「おい、いい加減戻れよ……役目を果たさない奴はいらない」
 今日も果実を配っているユリオと会う。
 気づけばまるっと一年経ってしまったのだ、戻れと言われるのも仕方がない。
「そうなんだけどね……」
 果実はいまだ消えないまま。 正直なところ、このままでもいいと思っている。
「あいつの感情、消えるぞ」
 ぼーっとしながらスケートリンクを見ていたユウリは、ユリオの言葉に勢いよく振り向いた。 
「な、に……どういう」
「これは感情を記憶する為のものだろうが」
 ユリオは持っていた果実を見せて声をあげる。
 人間は感情豊かな生き物だ。 一年も出てこない感情があるなんておかしな話なのかもしれない。
 ユリオが言った言葉は、ユウリを天上界に戻す為の嘘なのかもしれないし、本当のことなのかもしれない。
 もし本当だったらどうするのだろう。
 動揺が隠せないユウリは、おそるおそるスケートリンクを見た。
 ユウリの様子を見たユリオは、持っていた果実をユウリの手のひらに置いて去っていく。
 リンク上では出番がやってきたヴィクトルが、黒い衣装を纏い滑っていた。
 ヴィクトルはこれからスケートで輝いて、あの笑顔を、感動を世界中にふりまいてくれるはずだ。
 もしこのまま果実が消えなくて、本当にヴィクトルから感情が消えてしまうとしたら。
 考えただけでぞっとする話。
 ユリオから持たされた果実を見ると、ちょうど消えていくところであった。
 ヴィクトルのスケートに感動し、溢れてくる感情を皆が記憶している。
 スケートを見て、感じて、誰もが心震わせる瞬間。 それをヴィクトルはつくっていっている。
 消えていった果実が、そうなのだと分からせてくれる全てだ。
 ヴィクトルが滑り終わり少しして会場内が大きくざわめいた。
 ジュニア歴代最高得点を出して優勝。 本来ユウリは喜んでいるはずだった。
「もう……無理なのかも」
 俯いた顔が上げられない。 果実が消えなくても、もう離れなければいけないのだと思ってしまったのだから。


「今までありがとう」
 ロシアに戻り落ち着くまもなくすぐ、ここを出て行くという話をした。
 静まる部屋、優勝しておめでとうなんて祝うこともできなくなってしまった。
「ヴィクト……」
 声をかけようとして止まる。 ヴィクトルの表情が今まで見たこともない表情へと変わっていた。
 好きだと言ってくれた時の表情とはまるで逆。
「なぜ?」
 震えている声。 ヴィクトルは今にも泣きそうで、見ているユウリの方が胸を締め付けられるようだ。
 こんな表情をさせたいわけじゃない、一緒に暮らしてきてここまで辛いと感じることは初めてだった。
 ヴィクトルの頬にすっと涙が伝う。
「大好きだよ」
 大好きだから、ヴィクトルから感情は消えて欲しくない。
 ユウリの視線の先には、ヴィクトルと棚の上に置いてある果実がある。
「だったら……」
 
 いかないで

 ヴィクトルはユウリの着ている服を掴み、小さな声で願った。
 そういえば、この服もプレゼントだった。
 一緒に食べた食事も、スケートで滑る姿も全部がユウリに与えられたプレゼント。
「ごめんね、あの果実が消えたらさよならなんだ」
 果実が消えなくても離れなければならないと思っていたのだが、離れることを伝えたことでそうならずにすんだようだ。
 ユウリがヴィクトルに与えてあげれるものは、これしかない。
 ヴィクトルがおそるおそる見た棚の上の赤い果実。
 ずっと消えなかった果実が、薄ら消えていくのを見てしまった。
「っ……!」
 ヴィクトルの声にならない叫びが聞こえた気がした。

 出ない感情などあってはいけないのだ、離れることで消えていく果実。 離れることはきっと正しかった。
「ヴィクトル、きっとキミは忘れない」
 ここで生まれた感情は、記憶としてきっと残る。
 もうヴィクトルから感情が消えることはないだろう。
 ヴィクトルは慌てて果実を掴もうと棚の方へと手を伸ばし、掴んでいたユウリの服を離してしまった。
 今しか離れるチャンスはないと、ユウリはすぐに窓を開けて背中に力を入れた。
 服に裂け目が入り、白い羽が背中から生えて翼となる。
「ユウリッ…!」
 数枚の羽が部屋に落ち、ヴィクトルの部屋から羽ばたいてユウリは消えた。
 棚からも赤い果実は消え、零れ落ちた雫で歪んで見える羽だけが残った。




「という夢を見た……」
 起きてすぐ思わず口に出た。 子供の頃のヴィクトルが夢に出てくるなんて幸せすぎて死にそうだ。
 できればあんな悲しい展開ではなく、もっとスケートを滑ってる楽しい展開を希望したかった。
 夢にしては、やけにリアルだったと思っていると、手に何か持ってる感触があった。
「これって」
 手に持っているものを見てどういうことだと考えようとしたが、その前にスマホを見て飛び起きる。
 急ぎ服を着替え、慌てて走り出した。
 目的の場所に到着して息切れしながら扉を開ける。
「すいません、寝坊しました。あ…あの」
「おはよう勇利!俺をここまで待たせるなんて、アエロフロートか勇利ぐらいだよ」
 満面の笑みを浮かべたヴィクトルが、アイスキャッスルはせつにて待っていた。
 勇利はスライディングしていく勢いでヴィクトルの前で土下座をして謝り倒す。
「おぉジャパニーズ土下座」
 土下座の体勢から視線を上げてヴィクトルを見た。
 コーチとしてここにいてくれることが夢のようで、でも嬉しくて。 色々な気持ちがあふれ出てくる。
 じっと見つめていると、光るものが視界に入った。
 スケートリンクに差し込んだ光がヴィクトルの首元を照らして光らせているようだ。
「あ……」
 光っていたものは、覚えのあるペンダント。
 寝坊したと慌てていて、にぎしめたまま持ってきていたものと同じものだ。

 まだ日が落ちるには早い時間。
「ヴィクトル」
「ん?なんだい勇利」
 練習が終わり、リンク上で勇利はヴィクトルを呼び止めた。
 この言葉を言うか迷い、なかなか視線が定まらない。
 その様子を見たヴィクトルは勇利の側まで滑り、そっと肩に手を置く。
 勇利は触れてきたヴィクトルの手に自らの手を重ね、もう片方の手をヴィクトルの前に出した。
「食べれるリンゴ、買いにいかない?」
 前に出した手の中には、ヴィクトルがしているのと同じペンダント。
 それを見たヴィクトルの目は見開いて、驚き泣きそうな表情を見せた。
「そうしよう……」
 ヴィクトルは勇利の体を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめ、耳元で一言囁く。

「でも、食べれないリンゴも良いかもね」

 勇利の手からペンダントが落ち、リンク上に音を鳴らした。