その言葉が最後


 激戦のグランプリファイナルが終わり、勝利を掴んだのは勝生勇利であった。
 望んでいた金メダルは手元にあり、これで全てが終わるのだと実感がわいてきていた。
 隣で喜んでいるコーチのヴィクトル・ニキフォロフにメダルをかけて精一杯のハグをする。
 ヴィクトルがコーチになってから沢山ハグをしてきたけれど、これが最後になるかもしれないと思ったら自然と力が入った。
 突然目の前に現れて、コーチになった勇利のスケートの神様。
 憧れの人が傍にいる嬉しさと独占してしまっている申し訳なさが毎日頭をぐるぐるしていた。
 それでも、これで終わるから独占はもう少し許してくださいと願ってここまできた。
 ヴィクトルがコーチになってくれたからここまでこれた。
 この演技を滑る為にあったスケート人生。 そう言葉にしてもいいのだと思う。
 首からかけられた金メダルに触れて、喜びの笑みを浮かべたヴィクトルは
 次に出てきた勇利の言葉に表情が固まる。 メダルに触れていた手はゆっくりと離れた。
「今までありがとう」
「……勇利?」


 これが最後なのだと告げた時のヴィクトルの表情は初めて見るものだった。
 こんなにすぐ引退なんて思ってもいなかったのだろう。
 納得するにしてもしないにしても、いつもならすぐに紡がれるはずの言葉がヴィクトルの口からは一切出てこなかった。
 何かを言おうと口を開いてはいたが、出てきた言葉は名前だけだった。
 引退でなければ、コーチを辞めたとしてもリンク上でまた会える。
 しかし、引退は今後スケートに関わることでもしない限り会うこともない。
 引退をすることは決めていても、引退後のことはまだ何も決めていなかった。 スケートに関わらないかもしれない。
 だから本当の意味でヴィクトルと触れ合える最後なのだと感じていた。
 勇利の言葉を聴いて動けなくなってしまったヴィクトルから離れ、会場の出口に向かって歩いている時、ユーリと出会う。
「おいっ……次は」
「ユーリは!」
 ユーリの言葉は、勇利の言葉で止まる。
 いつもの呼び方と違うことに驚き、ユーリは勇利をじっと見つめた。
 勇利にはユーリに言ってやろうとずっと思っていた言葉があった。
 これを言ったらきっと怒るだろうということも予想していたので、この最後の時が一番のチャンスなのだ。

「ユーリは……二人もいらないだろう?」

 ざわめく周りの音が消えた気がした。
「ふ……ざけんなッ…!」
 自分が放ったあの言葉を、今度は言われる立場になるなんて思ってもなかっただろう。
 言われた方の気持ちが分かったかと勇利は笑みを浮かべてやる。
 ユーリはカッとなり、勇利に向かって足を進めてきた。 しかし、その足はすぐに止まる。
「お前……」
 最初は挑発的な笑みだと思っていた表情。 それが違う笑みだとユーリは気づいてしまった。
 普段の笑みを知っているからこそ違いが分かってしまう。
 いなくなるのがどちらなのか分かってしまう表情であった。


 グランプリファイナルが最後のチャンスだと決めていた。
 金メダルをヴィクトルの首にかけたまま、インタビューもそこそこに勇利のスケート人生は静かに幕を下ろした。
 手元に金メダルはない。 ヴィクトルの首にかかったままだ。
 名前を言ってくれた……その言葉が最後になった。
 ユーリの言葉も最後は名前だった。
 勝ち逃げだとか、ふざけるなとか色々叫んではいたが最後は勇利と呼んでくれたのだ。
「カツ丼卒業かな……」
 これからスケートに関わっていくのかを考えなくてはならない。
 メガネを枕元に置き、ベッドに寝転がり天井をぼーっと見つめる。
「ヴィクトルもユリオも面白かったな、最後の顔ったら」
 数日前の出来事を何度も思い出して泣きそうになりながらも小さく笑う。
 長いようで短かった。
 コーチや振付師、何かしらスケートに関わるのならばまた会うこともあるかもしれない。
 絶対会えるかと言われると、絶対などないわけであり、無難なのはテレビで応援するぐらいだろう。
「んー……」
 体の向きを変え左右に転がる。 ふと目に留まる自分の左手。

『プロポーズみたいだね』

 あの言葉を思い出し、嬉しいのやら悲しいのやら。
 左手の薬指を口元へもっていき、そっと口付けた。
 それとほぼ同時に扉の開く音がした。
「ふっあ?!」
 自分でもびっくりするほど変な声が出て、勇利は体をベッドから起き上がらせる。
 家族にこんな開け方をする人はいない。 ならば誰なのだと思い、メガネをかけようと枕元に手を伸ばした。
「忘れ物だよ」
 聞こえてきた覚えのある声。 メガネに触れる前に手が止まった。
 顔を上げた視線の先には、金メダルを持ったヴィクトル。

 彼は……いつも僕をびっくりさせる。

 部屋に入ってきたヴィクトルは、驚きを隠しきれない表情の勇利にそっと金メダルをかけた。
「えと、その……」
 メガネをかけなくてもハッキリ見える距離。
「引退について俺は何も言わないよ……」
 悲しそうな表情を見せたヴィクトルに勇利は返す言葉が出てこない。
 気まずくなり視線を逸らそうとしたが、ヴィクトルに抱きしめられてそれは叶わなかった。
「黙ってていいから離れず傍にいるんだろう?」
 耳元で囁かれた言葉。
 勇利の目から涙がこぼれ落ちた。
「ヴィクトル……」
 それからしばらく互いに言葉は出てこない。

 最後に言葉にしたのは彼の名前。