かくれんぼ


地上に負けず劣らず天界の自然は美しく、中心部から少し離れれば森や泉を見つける事ができる。
天界に住む天使たちや、地上で働く精霊たちなどは天界の自然の中で身を癒し
また、どこかから迷い込んだヒトの魂も美しい自然につられて天界にやってくる。
天界で有名な自然と問われると、必ず小さな泉があげられた。
ただこの泉に辿り着けるのは天界に住む者でも難しいのだと言われているそうだ。
それを聞いたイーノックは、羽を広げて飛んでいけば辿り着けるのではと考えたのだが
天使の多くが無理なのだと首を横に振った。
その泉に辿り着くには天界に住む多くの大天使の許可を全てとったうえで
大天使の長の羽を一枚持っていかなくてはならないそうだ。
許可はそう簡単にはおりないし、大天使の長に会える者は少ない。
会えたとしても、大天使の長は羽を滅多に出さずに特別な能力だけで移動しているそうだ。
羽が貰える奇跡などないと言っていい。
所々から溜息が聞こえてきた。
そんなに難しく、またそれほどまでしないと行けない綺麗な場所なのか
「そうだ!イーノック、君ならきっと」
一人の天使がイーノックの肩に手を置いて言葉をかける。
先程まで溜息ばかりで暗くなっていた空間が明るくなった。
イーノック自身、大天使やその長とも会った事がない為、行けるはずはないと思っているのだが
談話していた天使たちは、イーノックならば行けると喜び始めてしまった。
もしイーノックが行けるとしても、自分たちが行ける訳ではないのに
天使たちの喜びは歌になり、暗い雰囲気は完全に消え去る。
楽しい時間が終わり、自室に戻ると卓上に書類が積まれていた。
書類は仕事なのだしいつもの事だが、先程の天使たちとの談話が楽しかっただけに肩を落とす。
「さっきまで楽しそうだったのに、どうしたんだイーノック」
誰もいないはずの部屋に声が響く。
イーノックは声が聞こえてきた方へと向いて呆れたような声を出した。
「ルシフェルか、見ていたのなら入ってくればよかったのに」
天使たちの輪に入ってその場で色々話せばいいのに、ルシフェルはいつもイーノックの部屋に来て
そこでイーノックと話をする。今日は何があったのか、楽しそうでなによりだなんて
他の天使たちとも話をすれば自分が楽しくなれるはずなのに、それをする事はない。
「いや、君から楽しかったという話を聞ければ十分だ」
話を聞くもなにも、その場を見ていたのだから聞かずともよいのだが
ルシフェルは、イーノックの口から話を聞いてみたいのだという。
物好きだと笑いつつも、今日あった出来事などを話すのは日課になりつつある。
「泉か……」
今日の話は一番盛り上がった泉の話だ。
行くのは難しいが、とても美しく綺麗な場所なのだという。
天使たちはイーノックならば行けるかもしれないと言っていたが、それはないだろうという事も話をした。
ルシフェルは行った事があるのだろうか。
書類を一枚、一枚片付けていく途中で疑問に思う。

天界に召し上げられた最初の頃は、ルシフェルとこんなに仲はよくなかった。
どちらかというとルシフェルはヒトの子を嫌っており側に寄る事はなく
イーノックはただ仕事をするだけの毎日。それが変わったのはある日突然だった。
普段通りに仕事を終わらせ自室へ戻ると、ベッド上にルシフェルが寝転んでいた。
様子を見ると熱が出ているようで顔が赤く染まっており苦しそうにしている。
息を荒くしながらシーツを握り締めているのを見たイーノックは、ルシフェルの背中をさすり看病をした。
後から聞いた話だと、たまたま通りかかった部屋で一番近かったから入ったのだそうだが
この時は本当に苦しかったのだろう。
ルシフェルの様子が落ち着いてから、改めて何が起きたのかを考える。
天界でも病気はあり、ヒトでなく天使でも苦しむ事があるのだという事をここで初めて知る。
イーノックは、しばらくの間ルシフェルの看病を続けた。
ルシフェルが部屋に顔を見せるようになったり
話をしたりするようになった大きな原因はこれだと思われる。
懐かしい事を思い出している途中で、羽ペンの横に白い羽が置かれた。
「羽……?」
振り返るとルシフェルの背中に羽が十二枚。
普通の天使ではない数の羽に驚いて言葉が詰まる。
「泉に行きたいのだろう、それでいける」
ハッキリと見えた羽は、だんだんと薄れていく。
手元に残った一枚の羽を残して見えなくなってしまった。
「でも、羽は大天使の長……」
言いかけて止まる。イーノックの体がぶるりと震えおそるおそるルシフェルの方へ顔を向けた。
泉に行くには誰の羽が必要であっただろうか……。
「間違えても泉に入るなよ、今の時期あの泉は冷たいからな……風邪を引く」
何事もなかったかのようにルシフェルはベッドに腰掛け、近くに積んであった本を手にとった。
ページを捲る音がやけに大きく聞こえる。
「ルシフェル!貴方はっ」
震える手で持った羽を握り締める。
ルシフェルに問おうと声を出したが、途中で止まってしまった。

正しくは、止められたのだ。指の鳴る音がした。
握り締めていた白い羽がひらりと抜け出す。
先程までルシフェルによって捲られていた本のページが、窓から入り込む風によって捲られた。

『ルシフェルの羽は温かい』

『会えない』

本に浮かび上がる天界文字。
それを見たイーノックは、慌てて本を閉じた。
「会え、ない……」
声が震えた。何故震えたのか、何故本を慌てて閉じたのか、イーノック自身分かっていない。
ただ、この本の文字を……この先を見てはいけない気がした。
イーノックの手から抜け出した羽が、床へ辿り着く。
この場から、ルシフェルの姿は消えていた。