かくれんぼ


「何をしているの?」
白い羽が何枚も重なった中心に、ガブリエルの声が掛けられた。
羽の持ち主は、泉の辺で体を横にしていた大天使ルシフェル。
しかし、ガブリエルの言葉はルシフェルに掛けられたものではなかった。
羽に声を掛けている姿は、他の天使からしてみると不思議な光景ではあるのだが
ガブリエルはひたすら声を掛け続けている。
ルシフェルは、羽に声を掛けられていても返事をせず
手に持った本のページを捲り、小さな欠伸をしていた。
何度か声を掛けたところで、ガブリエルは溜息を吐く。
「返事が返ってこないわ……」
水浴びをしながら様子を見ていた天使たちは
当たり前だと心の中で思ったのだが、口には出さない。
パタンと本を閉じる音がした。ルシフェルがクスクス笑いながら、手に持っていた本を地に置く。
「イーノック、もう見つかっているぞ?」
ルシフェルの口から言葉が発せられると、羽がもぞもぞと動き出した。
ふわっと羽が舞う中、出てきたのは小さな手。
更にもう片方の手が羽から出てきて、最後には蜂蜜色の髪から可愛らしい顔が現れた。
「ふぁ…っ」
ルシフェルの羽の中から現れたのは、幼きイーノック。
息を大きく吐き出して、もぞもぞと動いていた。
「温かくて、寝てしまって……あの、すみません」
イーノックは微笑みながら両足を出して、羽の中から出てくる。
地に足を着いたイーノックは、ガブリエルに頭を下げて周りを見渡した。
この場所が泉だと分かると、瞳をきらきらと輝かせてその場から走り出す。
ガブリエルとルシフェルは、その場から走り去る小さな背中を見つめて微笑んだ。
「イーノックは何をしていたのです?」
「かくれんぼという遊びだそうだ」
「かくれんぼ?」
聞いた事のない言葉に、ガブリエルは首を傾げた。
ルシフェルの話によると、鬼という役を決められた子が、隠れた子を見つける遊び。
隠れる子は鬼に見つからないように隠れるという。
少なくとも二人以上居ないと成り立たない未来の遊びなのだそうだ。
「そんな遊びがあるのですね……で、鬼役というのは」
「私だ」
ルシフェルの言葉に再び首を傾げる事になる。
「かくれんぼ、という遊びは……鬼に見つからないように隠れるのですよね?」
「あぁ、そうだな」
「その鬼役は、ルシフェル様と」
「かくれんぼを教えたのは私だからな、私としか遊べないだろう?」
「イーノックは……」
「私の羽の中ならば、見つからないと思った結果だ」
会話がピタリと止まる。
ガブリエルから息を吐く音がハッキリと聞こえ、ルシフェルは微笑みながら
他の天使と駆け回るイーノックを見つめていた。

イーノックは話を聞かない。よくルシフェルが言っている言葉だ。
本当に話を聞かないのかと、色々なことを話した事もあるが
その時はしっかりと聞いていた記憶がある。
神からの話も聞き、幼くとも与えられた仕事はきちんとしていた。
これらを考えてみると、イーノックは話を聞かないのではなく
ルシフェルの話を聞かないのではないだろうか。その考えに至り、ガブリエルは頭を抱えた。
もし、その考えが正しいとするならば、ルシフェルはこの事を分かっているのだろうか。
聞いてみたいが、聞いてみるのが怖い。開きかけた口は結局閉じる事になった。
「一緒に遊んでこないのか?」
しばらくの沈黙の後、ルシフェルが泉の方を指差した。
天使たちと遊び駆け回るイーノックの姿が視界に入る。
ガブリエルは言葉を出す事なく、ルシフェルに頭を下げて泉へと向かった。

イーノックが話を聞いて考え動く子だという事は、ルシフェルが一番知っていた。
ルシフェルしか持たない特殊な力で、未来も過去でも見守ってきたのだ。
ここにいる誰よりもずっと側に居る。
成長した先で大きな壁にぶち当たるがそこでも見守り、前に進むのを確認した。
本当に話を聞かぬ子であるなら、前になど進めないだろう。
風が流れ、地に置いた本のページが音を立てて捲れていく。
天界文字がびっしりと詰まり書かれていたページが何枚も捲れて
何も書かれていないページが開き、風が止んだ。
ルシフェルはゆっくりと起き上がり、そのページを見つめる。
しばらくすると、真っ白なページに文字が浮かんできた。
その文字は、先程見ていたページの丁寧な天界文字ではなく
走り書きのメモのような小さな文字。

『ルシフェルの羽は温かい』

『会いたい』

浮かび上がった文字を見て、苦笑する。
「仕事途中だろう、イーノック」
人差し指で浮かび上がってきた文字をトントンと叩いた。
最初から何もなかったかのように文字が消え
そのページには評議会の内容が浮かび上がってきた。
最後の行まで目を通し、ルシフェルはぐっと伸びをして羽を仕舞う。
本は開いたまま放置して立ち上がった。
泉へと足を運び、水へ足をつけて天使たちを見つめているイーノックの側に座る。
「ルシフェル様……」
「ん?」
泉の方を見つめたままイーノックが言葉を発した。
ルシフェルはイーノックを見つめ、次の言葉を待つ。
「また、かくれんぼ……いいですか?」
「あぁ、好きにするといい」
ルシフェルの答えに、イーノックは幸せそうに微笑んだ。

風が流れる。開いたままの本はページが捲れ、また真っ白なページで止まった。
ゆっくりと浮かび上がってくる小さな文字。

『かくれんぼ』

『会いたい』

『温かい羽』

『貴方に会いたい』

『会いたい』

『会いたい』

何度も重ねて浮かび上がってくる文字。
消えては浮かび、浮かんでは消えた。
誰にも見られる事のない文字は全て消え、最後に残ったのは本を書いた主の名前。

『書記、イーノック』

その文字だけが残る。時間はあっという間に過ぎ去り、夕暮れ時。
開いていた本は、幼きイーノックの手で閉じられた。