涙に口付け


ルシフェルはいつも携帯という物を持っていた。
幼きイーノックは、その携帯をじっと見つめてルシフェルの前に立つ。
どんなに大事な話をしていても、携帯が音を鳴らし始めると
ピタリと止まり誰かと話を始めてしまう。
そうなってしまうと、イーノックは邪魔にならないように
黙り込んで話が終わるのをじっと待つ。
最初の頃は大人しく待っていたのだが、何回も続いてルシフェルが話しに夢中になっているのを見て
イーノックは頬を膨らまし始め、ジーンズを引っ張るようになった。
それでも携帯は鳴るし、ルシフェルは話を止めない。
ならば隠してしまおう。そう安易に考えた結果、イーノックはルシフェルの部屋に忍び込んだ。
部屋を見渡して机の上に黒い物を見つける。目的の携帯だ。
「あった……っ」
少し高い机、爪先立ちをして手を伸ばす。人差し指がかろうじて触れて
携帯は小さな音を立ててイーノックの手のひらに落ちてきた。
ぎゅっと握り締める。あくまで隠すのだ、壊さないように壊さないようにと呪文のように繰り返す言葉。
そっと部屋を出て、少し廊下を歩く。見つからずよかったと
ホッと息を吐いた所でイーノックに声がかかった。
「イーノック?こんな所で何を」
驚きビクンと体全体が揺れる。声の主は、一番会ってはいけないルシフェルであった。
言葉が途中で途切れ、それを聞いたイーノックは慌てて持っていた携帯を背中に隠す。
「……出しなさい、イーノック」
しかし見つかってしまったようで、ルシフェルは手のひらをイーノックに向けて出してきた。
イーノックは怖くなってルシフェルを見る事が出来ずに目を瞑り
首を必死に横に振って一歩、また一歩と後退りをする。
ゆっくりと紡がれるルシフェルの言葉。イーノックは震えながらその場から逃げ出した。
自室に逃げ込んで隅の方で丸くなる。
いつ扉が開いてルシフェルが来るのか分からない。
怒らせるつもりも困らせるつもりもなかった。ただ携帯ばかりに夢中になってるのが嫌で
もっとこっちを見て、話をいっぱいしてほしくて、ただそれだけだった。
イーノックは手に持っている携帯を見つめて、どうしようと悩む。
返しに行かないといけない。ごめんなさいと謝って、ちゃんと理由を説明しないといけない。
もし、許さないと言われたらどうしよう。悪い子だって言われてしまったら
それならまだいい。これがきっかけで、言葉を交わす事も出来なくなったら。
嫌われてしまったらどうしよう、色んな事を想像して手が震える。
謝って返す事を考え、同時に怒られる事も考えた。
なかなか立ち上がる事が出来ない。悩んでいる内に時間はあっという間に過ぎ去った。
いつまで経ってもルシフェルは部屋にやって来ない。やってくるのは罪悪感だけ。
このままここで蹲って丸まっていても、どうにもならないと思い
イーノックは深呼吸を数回してゆっくりと立ち上がった。

ルシフェルの部屋の前に来て、扉をノックした。
この時間なら部屋に居るだろうと思い来たのだが返事はない。
居ないのだろうかと、そっと扉を開き部屋を覗く。
「ルシフェル…様?」
謝りに来たのに、見つかるのが怖くて小さな声になった。
よく見ると部屋の奥にルシフェルは居た。机に向かって座り、なにやら書物を手に持っている。
音を立てないように部屋に入り扉を閉めた。
ゆっくりとルシフェルに近づく。何よりも最初に謝らねばならない。
謝って、携帯を返して。そう考えて声を出そうとした時だった。
「部屋に戻りなさい」
ルシフェルの言葉が耳に入り、イーノックはその場で動けず固まった。
怒っている。その思いが瞬時に頭を巡り、冷や汗をかいた。
「あ…、あの……」
落ち着かないと喋る事が出来ない為、大きく息を吸って懸命に言葉を捜す。
ごめんなさい。その一言は絶対言わなくてはいけない。
そうしたら携帯を返して、もう二度としないと話をして。
頭の中ではスムーズにいく事なのに、いつまで経っても最初の言葉が出てこなかった。
ルシフェルの後ろに立ち、黙ったまま時間が過ぎる。
言葉どころか声さえも上手く出てこないイーノックは震える手で携帯を握り締めた。
まず机の上に置いて返そう。そうしたら謝罪をちゃんと口にする。
そう思い、携帯を机の上に置こうと一歩踏み出したが
「いいから、部屋に戻りなさい」
ルシフェルの言葉にイーノックの足はピタリと止まった。
「るし…ふぇるさま……あの、」
背を向けたまま振り向かずに出される言葉は、いつも話をしている時よりも冷たく
イーノックの心に突き刺さる。やってはいけない事をしたのだ、こうなっても仕方がない。
携帯を隠そうと考えた時に、こういう事になるかもしれないという事も考えなければいけなかった。
「あの……これ、は、えと……」
手が震え、声も震えた。自分が悪い事をしたのだから、謝らないといけない。
けれど、出てくる言葉はどれも違うもの。
俯いたり、ルシフェルの背中を見たりしていると突然携帯が震え鳴り出した。
手から滑り落ちそうになって慌てて握り締める力を強くする。
「る、るしふぇる…様、あの、この…えと、鳴って……」
携帯が鳴り続けるが、ルシフェルは背中を向けたままで振り向く事はしなかった。
イーノックの瞳から大粒の雫が伝い始める。
鳴っている携帯をどうしたらいいのかも分からず、ルシフェルに謝る事も出来ない。
悪いのは自分なのに、悲しくなって辛くなって仕方がなくて涙が止まらなくなった。
「そこでずっと立っていても邪魔なだけだ、謝る気がないなら部屋に戻りなさい」
邪魔という言葉だけが頭に酷く響いた気がして、イーノックは声を出して泣き始める。
両手で持っていた携帯は片手に持ち替えて、もう片方の手は出てくる雫を拭うのに顔へ。
携帯から鳴る音は止まり、部屋にイーノックの泣き声だけが響く。
それでもルシフェルは振り向く事はしなかった。
本当に邪魔なのだと思い、イーノックは頬を濡らし雫は流れ服に染み込む。
「ご、め……な、さい…るし、ふぇるさ、ま……ほ、んと……うに、ごめ……な」
涙で顔はぐしゃぐしゃになって、服の袖も濡れて色が変わっている。
出てきた言葉は上手く繋げれてない途切れ途切れであった。
「しな、い……から、も、し……ない、から……」
俯いて零れてくる涙を必死に拭って言葉を放つ。
椅子が引かれる音がした。ルシフェルは立ち上がり、イーノックに向かって歩いてくる。
それに気づかないイーノックは、大粒の涙を零し続けていた。
ふと、イーノックの頭に何かが置かれる。
ゆっくりと顔を上げると、ルシフェルがイーノックの頭に手を置いたところであった。
もう片方の手でイーノックの手から携帯がするりと抜かれ、親指で頬を擦られる。
両手が空いたイーノックは、すぐに目の前に居るルシフェルの服を掴んだ。
「邪魔、しない……から、邪魔、し、ない…から……」
皺になるほどぎゅっと掴み、止まらない雫を流し続けた。
「あぁ、ちゃんと謝ったのだから……泣き止めばいいのに」
ルシフェルの手がイーノックの頭を撫でて雫を掬う。
それでもあふれ出てくる涙にルシフェルはそっと口付けた。