捕縛せよ


神から承った言葉は、生きてきた長い時の中で一番耳を疑うものであった。
どうしてそうなってしまっているのか、誰か止めなかったのか。
教えてくれる天使は、この天界のどこにもいなかった。
一人、部屋に戻ってベッドに腰掛ける。何もする気が起きない。
イーノックは両手で髪の毛を掴み頭を抱えた。
俯いた状態で深呼吸を始め、息を吸って吐いてを何度も何度も繰り返す。
事態は変わらない。ただ、落ち着いた事によって手が震えている事に気づいた。
髪から手を放して膝の上に置く。落ち着いて、震える手を止めようと必死になった。
掴んでいた事で髪はくしゃくしゃに乱れてしまったが、今のイーノックに直す余裕などない。
手の震えはなかなか止まらなかった。
「どうして……っ、どうしてどうしてどうして」
分からない。どうしてこうなってしまったのか、イーノックには分からなかった。
体の中の全てが口から吐き出そうになるくらい言葉を吐き続けた。
静かな部屋に一人。いつも聞こえてくる鳥の鳴き声さえ耳に入ることはない。
深呼吸は何度もした、落ち着こうと何度も自分に言い聞かせた。
それでもイーノックは、立ち上がったり座ったりを繰り返して髪を掻き毟り
止まらぬ震えを止めたくて己の手に爪を立てた。
痛みで正気付き、ベッドに寝転んだところで胸も痛みを発している事に気づく。
「…………ボロボロだ」
助けてと悲鳴をあげた体が次々と崩れていく。次はどこが痛むのか。次はどうなってしまうのか。
イーノック自身にも分からない痛みが襲う。
声を上げて助けを呼びたかった。本当は心の底から声をあげてしまいたかった。
しかし、イーノックは誰の助けを呼ぶ事なく痛みを心の中に仕舞い込んでその日を終える。

数日後、神から捕縛命令が出た。

地上に降りて森を抜ける、まだイーノックに襲う痛みは続いていた。
神は誰か他の者に行かせると案を出してきたのだが、それだけは嫌だと断ってしまった。
痛みなら耐えられる。だから行かせてほしいと頭を下げて願った。
どうしても、地上に降りるというならばと神から授かったのは光の刃アーチ。
相手も奪い取った戦いの知恵を持っている。こちらに武器がないのは危険だという事らしい。
イーノックは、大人しくアーチを受け取ったが使うつもりはないと思っている。
否、つもりではない。使わないと誓って地上に降りたのだ、この時までは。
森を抜けた先には荒野が広がっていた。景色は緑無き世界へと変わる。
荒野の中心へと足を進めると、森とは違った足場で足音も違う。
砂利を踏む音が耳に入り、珍しい音だと地に視線を向けた。
穿いているジーンズが視界に入る。これをくれたのは、ここに居ない彼だ。
考えて胸の痛みが増して息苦しくなる。持っていたアーチが音を立てて地に落ちた。
その場で片膝をつき呼吸を整えようとする。
「やぁ、イーノック……疲れてしまったのか?」
整えようとして一瞬呼吸が止まるかのような感覚に襲われた。
居ないはずの彼の声が、前の方から聞こえてくる。変わることのない、いつもサポートをしてくれていた彼。
「ル…シ、フェル……貴方は」
顔を上げたイーノックの視界にいつもの彼、ルシフェルの姿が映る。
そしてその姿は少しだけ違っていた。黒い服装は前から同じだが、一つだけ違う点があった。
美しい純白の羽が、漆黒の闇に包まれていたのだ。
「どうした?元気がないぞ、神にでも扱き使われているのか」
ルシフェルの笑い声がやけにハッキリと聞こえる。
また手が震えだす。落ち着いて深呼吸をしてゆっくりと立ち上がった。
何度も言い聞かせたではないか、神から直接伝えられた言葉を自分で口にして
髪や胸を掻き毟ってでも、爪で傷をつくってでも落ち着かせて言い聞かせて。
「貴方を、捕縛する」
「……ろぉっと、本当に扱き使われてるようだな」
ルシフェルは己の唇を舐めて笑みを浮かべイーノックを見つめてきた。
周りには奪われた戦いの知恵ガーレがふわふわと浮いている。イーノックの手元には拾い上げたアーチ。
武器としての相性は悪く、イーノックからしてルシフェルは敵としての相性も悪い。
今までずっと一緒に居た仲だ。幼き頃から書記官の仕事をしている時も、堕天使の捕縛の旅ですら
そのずっとという意味は永遠に続くと思われた。
「その震える手で、捕縛などできるのか?」
言葉を投げられ反射的にアーチを持った手を片手で押さえた。
微かな震えが相手に伝わるほど緊張しているのか
それともただ、彼を捕縛する事が辛いと悲鳴をあげているだけなのか。
ふと気づくと前に居たルシフェルの姿が見えない。慌てて周りを見渡すと自分の周りが薄暗くなった。
「上かッ!」
上を向くと、ルシフェルは正解だと笑っていた。
ガーレを装備している事によって、ルシフェルは普段の倍以上の早さで高速移動ができる。
イーノックの上に飛び上がったようだ。ルシフェルの表情を見て、また胸が痛む。
疾風の如きスピードでガーレを操り撃ち抜こうとしている。誰をと考えてしまい
次に、自分を撃ち抜こうとしているのだと改めて自分で思いイーノックの表情が歪んだ。
撃たれるガーレをアーチで切り裂きイーノックは飛び上がった。
羽ばたく音が間近で聞こえる。その音は懐かしいものではあったが、やはり羽の色だけが違和感を生む。
「他の天使に任せればいいものを……」
聞こえてきたルシフェルの小さな声に、イーノックの動きが一瞬止まる。
その瞬間、待っていたかのようにルシフェルは羽ばたかせてイーノックに黒い羽の吹雪が襲った。
目を開けていられずに両手を顔の前にもっていき視界を安定させるが
既にルシフェルは距離をとって離れてしまっていた。
互いに地に足を着け降り立つ。風が間を通り抜け小さな砂嵐を生んだ。
砂嵐が治まった時、イーノックの手からアーチがすり抜ける。音を立てて地に落ちた。
「……どうした」
ルシフェルは驚きのあまり目を見開き言葉を紡いだ。俯いたイーノックは力を抜き戦う体勢からは程遠い。
「…………どう、して」
「イーノック?」
「どうしてっ…どうし、て、堕天……など」

神から承った言葉を疑ってはいけないと思いつつも、信じたくなかった。
どうしてそうなってしまっているのか、ルシフェルが堕天してここに居ないなど。
誰か止めなかったのか、何故自分はその場に居なかったのだと散々自分を責めて
震える手や体を落ち着かせる為に、何度も何度も堕天したのだと、この場に居ないのだと
辛い真実を言い聞かせて、息をするのすら苦しくて生きている心地などしなくて
言い聞かせても嘘なのではないかと思ってしまい繰り返し神に尋ね、同じ言葉を貰い、傷付き。
ボロボロだと己の体を見て笑い、そこまできても嘘だと夢だと誰か言って欲しくて
痛みが続く中、知りたいが為に、嘘だと直接言われたいが為に捕縛の道を選び来た。
誰もルシフェルが堕天した理由を教えてはくれなかった。否、誰も知らなかった。
だからこそ、直接。本人に聞きたくて来たこの場。
もう戦えない。ガーレで貫くならば貫けばいい、ただ知って嘘だと言って欲しい。
その嘘だという言葉が例え嘘でも。もういいのだ。
ルシフェルがガーレの装備を外してゆっくりとイーノックの側にやってきた。
俯いたままのイーノックにはルシフェルの脚しか映らない。
「顔を上げて……イーノック、お前に」
声を聞き、イーノックは顔を上げた。視界には苦笑したルシフェルの姿。
もう互いに戦う体勢ではなくなっていた。見つめ合う少しの時間、それがとても長く感じる。
「ルシ……」
名を呼ぼうとしたところで、イーノックはルシフェルに抱きしめられた。
今、自分の体はルシフェルに触れている。居なくなったと思っていた彼に抱きしめられて、触れている。
そう考えただけで目が潤む。いつも側にいた匂いが自分を包み込んで時間が経った。
「お前に触れたかった」
言葉の意味を理解するのに数秒。瞬きを繰り返したイーノックの頬に雫が伝った。
伝えたい言葉が思いつかず口から出てこない。代わりに雫が溢れんばかりに出てきてしまう。
ルシフェルが一歩離れ、イーノックの頬を手で擦った。
「ようやく触れれた」
「そ、んな……事の為に、堕天を」
上手く言葉が繋がらず、泣き声混じった声での言葉。
イーノックの言葉にルシフェルの表情は変わり硬くなった。
「あぁ、そんな…………事の為だ」
二歩、三歩とルシフェルが離れていく。
伝えたい言葉とは裏腹に出てくる言葉。上手く相手に伝わらない。
それが悔しくて苦しくて辛くて、何故ここに立っているのだろうと会いに来たはずの意味すら考え出す。
聞けたではないか。堕天した理由。
その理由を嬉しいと喜ぶべきなのかと考えたが、喜んではいけない。
彼を堕天させた理由がそれならば、余計に喜ぶべきではない。
「そんな事の為に神を裏切っ」
「そんなに神が大切か!!」
ルシフェルが初めて荒らげた。どんどん距離は離れて行く、もう手を伸ばしても届かない位置。
「私は……神ではなく、お前に触れたいと」

イーノック

名を呼ばれる。愛しい天使に愛しいヒトに名を呼ばれる。
呼ばれる事が、こんなに苦しいものだとは知らなかった。
離れたルシフェルを見つめ、イーノックは手にアーチを持った。
浄化をし天界に帰らせるなど甘い事はきっと許されない。
ルシフェルは他の敵とは違う、浄化の時間は与えてくれないだろう。
神は捕縛せよと命を出した。もう道は一つしかない。
イーノックは、アーチを構え走り出した。足が地から離れる度に小さな砂煙が周りを包む。
ルシフェルがガーレを構えようとした時には、もうイーノックはアーチを持って目の前。
このままいけばいい。何も考えずにいけばいい。何も考えてはいけない。
アーチを振り下ろそうとした時、イーノックの脳内でルシフェルの言葉が再生された。
お前に触れたい。ルシフェルはただそれだけを願ってこうなった。ただそれだけを願って。
イーノックは表情を歪ませアーチの軌道をずらし、ルシフェルに触れるだけの口付けをした。
驚き一瞬固まったルシフェルは小さく微笑み、アーチを持っていたイーノックの手を握り締めた。
「泣くな、これが私の最良の選択だ」
掴まれた手はアーチを持ったまま引っ張られ、ルシフェルの胸を貫いた。
無数の黒い羽が一斉に舞い散りイーノックの涙を奪っていく。


何が起きたか理解ができぬまま。
荒野に残ったのは、イーノックと黒い羽一枚であった。