とても大切なモノ
※ルシイーオンラインアンソロ作品※


「貴方が話題をころころ変えるからいけないんですっ!!」
評議会の最中の出来事であった、椅子の倒れる音と共にガブリエルの声が室内を一瞬沈黙に誘う。
倒れた椅子は起こされる事なく机の上に積み上げられた書類はひらひらと宙に舞った。
本来、議会途中で意味もなく大声をあげる事は禁止されているのだが
今回のガブリエルの行動や発言は、誰もが納得いく事だったので止められる事はなかった。
「ルシフェル様、貴方が書記をやって下さいよ」
うんざりだと溜息を吐いたのは、ガブリエルを哀れむような目で見つめるウリエルであった。
「何故?面倒はごめんだ」
何故自分が書記をしなければならないのかと欠伸をしながら
答えるルシフェルの言葉に、ガブリエルの言葉が重なる。
「地上の話に話題を変えて……挙句2010年などと訳の分からない事を」
ガブリエルの持っていた羽ペンから軋む音が聞こえ、ラファエルが慌てて羽ペンを取り上げた。
今にも飛び掛りそうな勢いのガブリエルに対し、ルシフェルは
何を怒っているのかと思いながらぼーっとしている。
いつから評議会は大天使たちの遊び場となってしまったのか
最初の頃、議会の内容を記録するという事はしていなかった。
記録をしておこうという話を出したのはルシフェルだ。
議会には顔を覗かせるだけだったので、内容全てを知れる訳ではない。
記録しておけば後から参加しても、参加しなくても大丈夫だと考えたのだろう。
しかし、言い出した本人は仕事をしなかった。
代わりに誰かがしなくてはいけなくなり、女性ならば書類のまとめ方がしっかりしているだろう
ただそれだけの理由でガブリエルが選ばれた。
そんな選ばれ方でも、与えられた仕事なのだからしっかりしようとしていたが
議会途中のルシフェルの話題変えに困り果ててしまったのだ。
最初は天界の話だったはずなのに、途中で地上の話となりヒトの話題に変わる。
挙句ルシフェルだけが持っている能力の話になり、2010年という不思議な単語が口から出てきた時には
さすがに記録する手がピタリと止まった。
そういう話題変えの問題は、ここ最近ずっと続いていたのだ。
そして話は最初に戻る。書記をしていたガブリエルの堪忍袋の緒が切れた瞬間。
椅子は転がり書類は宙を舞う、なのに怒りの原因となった本人は自分が原因だと分かっていない。
「書記を……連れてきて下さい」
いつもよりも低い声で怒りを抑えながら放たれたガブリエルの言葉。
「貴方の話題をかわしながら、書記の仕事が出来る者を連れてくる!!」
ガブリエルの怒鳴り声と共にルシフェルは会議室を追い出された。

「書記といってもなぁ……」
会議室を追い出されたので、天界を散歩中。
一応、評議会は特別なモノであり参加できる天使は限られている。
その辺にいる下級天使を連れ込む訳にもいかず、かといって自分が書記をするのは絶対にない。
どうしようと考えていたが、考える事すら面倒になってきた。
追い出されたのなら議会に出なくてもいいのではないかと思い歩く足を止める。
「……2010年にでも行こう」
あそこは面白い事が多い、毎日同じ事の繰り返しの天界よりよっぽどいい。
何かあれば強制的に戻って来いと話がくるだろうし、問題はないはずだ。
指を鳴らし時空を移動する。どこの場所に出るなど考えていなかったのが不味かったのか
ルシフェルは2010年道路の真ん中に姿を見せた。
天界と違う構造で出来ている世界では、飛ぶことは出来ない。
もちろん羽を出すこともできないので移動は歩きとなる。
現れた場所が悪かったのか、到着と同時に何かがぶつかる音が耳に入ってきた。
「……誰だ?」
自動車と呼ばれる鉄の乗り物と、金髪の青年が倒れている姿が視界に入り
何が起きたのかと頭の中で整理を始める。
確か道路の真ん中に到着して姿を見せた。普段は自分が触れるのもや
何かに触れられるのなどは自分の意思で決めれるが
ここではヒトと同じ状態になり、意思など関係なくなる。
力は使う事が出来るが、羽を出すことも飛ぶことも出来ない。
もちろん透明な姿ではないのだから、相手からもルシフェルの姿は見えるだろう。
周りを見渡して状況がようやく把握できた。
倒れている青年の服が血で染まっていく、すぐ側に止まっている自動車にでも轢かれたのだろう。
突然姿を見せたルシフェルを庇ってこうなってしまったのか
それとも事故する寸前に、ルシフェルがたまたまここに現れたのか
どちらにしても後味が悪い。
その場にしゃがみこみ青年の肩を少し揺すった。
しかし反応はない。かろうじて温かさが残っているので生きているのが分かるぐらいだ。
事故が起こっているところに現れたのだったら、後味は悪いが問題はない。
しかし、これがルシフェルを庇った事で起こった事故ならば大問題だ。
時空を移動する以上は多少なりとも過去や未来の出来事を変更する事になるが
ヒトの命を亡くしてしまうのは、やりすぎなような気もしている。
「仕方ないな」
自動車の方はどうでも良いので、青年に向けてだけ力を使う事を決めた。
パチンとしっかりとした指の鳴る音が響き、青年の服から血の色が消える。
先程よりも温かさが青年に戻り、顔色もよさそうだ。
大丈夫だと確認した後、飛んで帰ろうとしたがこの世界では出来ない事を思い出し溜息を吐く。
「ここは面白いが、面倒だな」
小さく呟いた後、足を進めてその場から去った。

翌日、しばらくの間天界に戻るのはやめようと考え2010年の地上を満喫していた。
天界では食べるという行為はしなかったが、気になって色々な物を食してみる。
衣類の店に寄りお気に入りのジーンズの店も覗いた。
いつも歩くという事をしないので疲れはしたが、どれもこれも満足感のある疲労であった。
夕暮れ時、空を見上げ水色からオレンジ色に変わる景色に見惚れる。
どんなに建物があっても山ほどヒトがあふれていても
この空は天界と変わらない景色。時空の先の世界でもどこか繋がっているのだと微笑ましくなった。
「疲れたな、どこか」
空に見惚れているのは良いが、やはり普段しない事をするのは疲れるもの。
周りを見ると小さなカフェを見つけた。丁度良いと外に並んでいる椅子に座る。
メニューを見て何を注文しようと考えていた時、何にするのかと店員に話しかけられた。
「まだ決めていないん……どうかしたか?」
まだ決めていないと言おうとして顔を上げると、驚いた様子を見せた店員がその場で固まっていた。
金髪に青い瞳の青年……先日の事故の青年だ。
だが何を見て驚き固まっているのだろうか、事故の件なら時間を戻したのだから知らないはずだ。
道路に飛び出したが奇跡的に助かったという記憶しかないだろう。
「天使……さま?」
「は?」
青年の口から天使という言葉がこぼれた。
何を言い出すかと一瞬心臓が止まる思いをする。
記憶はないはずなのに青年はルシフェルを見て驚いていた。
「天使様ですよねっ、あの時、羽が舞ってて!その、えと、有難う御座いました」
この青年は何を言い出すのだろう、今度はこちらが固まる側になった。
天使は合っている間違いはない、しかしこの世界ではヒトと変わらぬようになっているし
羽を出すことも飛ぶこともできないのに羽が舞っていたという。
「何を言い出すかと……コーヒーを頼むよ」
死にそうな状態から生きる事ができたのだから、その衝撃で頭がおかしくなったのかもしれない。
おかしくなってしまった頭を治すことは不可能だ。
不運だったなと思い青年の言葉を無視する事にした。
「あのお礼がしたいんです……お名前だけでも」
「コーヒー……を頼むよ」
しかし青年は引き下がらなかった。お礼などいらない、助けたつもりもないのに
そもそも記憶がしっかり消えていない時点で問題だ。
「ルシフェル、もういいだろう早く仕事をしろ」
「ルシフェルさん、ですね!はい、コーヒーすぐにッ」
町を巡る事よりも、どっと疲れが溜まった。
背もたれに身を預けぐったりとしていると、すぐに先程の青年が戻ってきた。
「ミルクティーです、疲れてる時には甘いものがいいんですよ」
目の前に出されたのは、注文した珈琲ではなく紅茶であった。
片手を額に当てて今起きた事を最初から整理したくなる。
何が起きてどうなっているのか、一種の混乱状況。
「私が注文したのは、コーヒーなんだが……」
「名前、イーノックって言いますっ!あ、お金は大丈夫です。奢りで!!」
イーノックと名乗った青年、まったく話を聞かない事だけは分かった。
本来ならば注文していないのだから客として怒るのが正しいのだが
どうもイーノックの笑みを見ていると怒る気が失せてくる。
紅茶が飲めない訳ではないし、奢りだというので何も言わず紅茶を飲む事にした。
「ルシフェルさん、また……来てくれますか?」
飲み始めてすぐイーノックがおそるおそる声を出した。
まだ居たのかと顔を上げて見てみると、凄く緊張している表情が見える。
感情が素直に出るものだと思い、どうしようかと考えた。
まだ天界に帰る訳にもいかないだろう、ガブリエルは怒っているし面倒なのは遠慮したい。
個人的にこの世界が気に入っているので、まだ散歩をするつもりではいる。
「散歩ついでに寄る事にするよ」
ルシフェルの言葉に、イーノックはとても幸せそうに笑った。


茶色のレンガで外観を飾り、深緑の屋根に白いテラス席が少々目立つカフェ。
多くの建物が並び、ヒトが急ぎ足で駆ける場所で
ここだけは少し別の世界のような感覚に陥る。
お気に入りとなったこのカフェにルシフェルは毎日通うようになった。
外のテラス席でぼーっと流れていくヒトを見ている。
ずっと居座るのも失礼かと思ったが、店員であるイーノックに大丈夫だと言われ
それではと遠慮なしに朝からカフェにお邪魔している。
ぼーっとするのに飽きれば注文をし物を食べ、そしてまたぼーっとする。
注文をしていないのに珈琲や紅茶が目の前に置かれている事が度々あったが
話を聞けば、また奢りのようだ。
最初はどうでもよかったのに少しだけ興味が湧いた。
奢ったりしていて大丈夫なのだろうかとか、何故天使だと思ったのかとか
興味はほんの少しだけ、だから直接聞こうとは思わない。
明るく挨拶をしているイーノックをじっと見つめるだけだ。
忙しい昼の時間になりカフェに客も店員も増えた。
珍しくイーノック以外の店員が注文を受けにやってきて、軽めの昼食を頼む。
笑顔で対応されたが、どうもしっくりこなかった。
「馬鹿か……」
何がとは自分がだ。何を求めているのか、しっくりこなくても良いだろうに
たかがカフェの店員だ、注文した物を運んでくれたらそれでいいはず
自分自身がしっくりこないと思ったのに、それを認めたくないという気持ちが覆いかぶさった。
少しして昼食が運ばれてくる。何故か注文していないカフェオレ付き。
思わず店員に対してこの飲み物の名を口にすると、イーノックの奢りだと答えが返ってきた。
この店は誰にでも飲み物をサービスしているのかと思っていると
ルシフェルの表情を見て店員は苦笑いしながらそっと教えてくれた。
「常連のお客様には、店員個人の給与から差し引きでならよくある話なんです」
あくまで個人の奢りであり、店からのサービスではないという。
教えてくれた店員に礼をして目の前にある昼食を少し口にした。
気づいたら目の前にある飲み物。自分が口にする飲み物とは違う物ばかりが出てくるが
食事や気分に合わせてくれているのは分かる。
昼食に付いたカフェオレも、メニューに合った飲み物であった。
半分ぐらい食べ進めたところで、前の方からなにやら音が聞こえてくる。
椅子を引いて誰かが座るような音。
「ルシフェル、いつも来てくれてありがとう」
前の椅子に座ったのは、店員で忙しくしていたイーノックだった。
「仕事は?」
「休憩時間なんだ」
真っ先に思った疑問をぶつけるが、即答で返ってくる。
折角の休憩時間にわざわざ客の話し相手でもするのだろうか、他人事のようにしていたが
イーノックは微笑みながらじっとこちらを見つめてきて
話をする事もなく、かといってその場から移動する事もない。
「……何を覚えているんだ?」
見つめられた状態で食事をする気にもなれず、どうせ目の前に居るならとぼそり話しかけた。
突然声をかけられてきょとんとした様子を見せたイーノックは、
声をかけられた事が嬉しかったのか微笑みながら言葉を口にした。
「私が庇ったモノがとても大切なモノだという事ぐらい」
それぐらいしか覚えていないと笑った。記憶は曖昧なようだが、ルシフェルがカフェに来て姿を見た時
イーノックの心に何か引っかかったと言う。
だからといって、天使はどうかと思うのだが実際当たっているのでなんとも言えない。
この世界の普通ならば天使というモノなどいないし、天使なのではという言葉も冗談になるだろう。
しかし話を聞いていく限り、イーノックは本気で思っているようだ。
ルシフェルが天使だと本気で思っている。
「ルシフェルは……帰らなくて大丈夫なのか?」
昼食が食べ終わり貰ったカフェオレを飲み始めたところで、イーノックの声が耳に入ってきた。
この世界の家に帰る意味なのか、それとも天使を本気で信じているならば天界へ帰るという意味なのか
一瞬だけ戸惑った。例えばここで天界の話をしたらどうなるだろう。
冗談を言い出したと笑うだろうか、それともまさか本気で信じるなんて事あるのだろうか。
迷った。この世界に来て初めて本気で迷ってしまった。
天界の話などしても信じてもらえないだろう、なによりヒトに対して天界の話をするのはタブーだ。
単純にどういう世界かなどを話せば軽い罰、天使が持つ知識を話してしまえば重い罰が待っている。
しかし、ルシフェルは本気で話すかどうか迷っていた。
冗談だと笑われればそれで終わり。もう来なければいいし指を鳴らして時の操作の手もある。
「ガブリエルが……」
やめろという信号が脳内でぐるぐるしている。けれどそれよりも好奇心が勝る。
「ガブリエル…さん?」
「あぁ、天使の一人なんだが……アイツを怒らせてしまって、ちょっと家出中なんだ」
だから帰れない。本当は違う、帰れないのではなくて帰らないのだ。
イーノックからどんな言葉が返ってくるのか、ほんの数秒がとても長いと感じる。
やっぱり駄目だったのかとマグカップを置いて時を操作しようと指を重ねた。
鳴らす一歩手前、温かいモノがルシフェルの指を包む。
包んだものを見ればイーノックの両手だった。急に何をするのかと顔を見上げる。
イーノックの眉間にしわがよっていた、初めて見る表情。少しだけ怒っているようにみえた。
「ルシフェルッ!!」
いつもより大きな声で名を呼ばれ驚いた。
イーノックが大きな声を出すのは珍しい、というより初めての事だ。
手を包まれているのだから指を鳴らすことも出来ない、かといってイーノックの両手を払う事も出来ない。
「家出はよくないッ……ガブリエルさんも、そのきっと反省しているから」
怒っているようにみえた表情は、ただ心配していただけのようだ。
天使の話を本気で信じて、家出まで心配する人間がどこにいるんだろう。
イーノックを見れば見るほど笑いがこみ上げてきて仕方がなかった。
「ガブリエルはいいんだ、本当……イーノック、君は」
笑いながらイーノックの髪に触れた。


見覚えのある景色。数日間でこの時代を一気に巡った為にどこで見たのか曖昧だ。
時空移動は数回ならまだ良いが、頻繁にするのは体力を失うので出来ず。
羽を出すことも飛ぶことも出来ないので、巡ったといっても
歩きや乗り物などに身を任せる移動のみで行ける範囲だ。
それでも天界に居た頃より充実しているし、何より気まぐれに顔を出すカフェが楽しくて仕方がない。
色々な時代に行ったが、おそらくあのカフェより楽しいところはないと思っている。
楽しいといっても周りにある店と変わらない食事所であり、何か特別な事がある訳でもない。
「あ、ルシフェル!!もう少し待ってくれるか?あと少しで仕事が終わるっ」
日が沈みかけている所でカフェに寄り、いつもの声を聞いた。
特別というならばこの声と言葉、姿を見れる事。だからこそ、このカフェが楽しいと感じるのだ。
いつものテラス席に移動すると、目の前にさらりと紅茶が置かれた。
紅茶を出してきた人物と出された紅茶を交互に見て小さく笑う。
いつもの事だが、そのいつもの事が心に染みるほど嬉しい事だと改めて思ったのだ。
もう少しするとカフェの閉店時間。天使の話をするようになってから店の時間最後までいるようになった。
終わればイーノックから声をかけられ、家まで送る道のりで天使の話をするという事を繰り返す。
イーノックは、信じて本気になって聞いてくれているようだ。
信じてほしいから話すわけではないのだが、天使の話を聞いてる時の表情は楽しそうで普段見れないモノ。
それが見たい為に話すのかもしれないと紅茶を飲みながら色々考えてみる。

店の外灯が消えた。そろそろ閉店のようだ。
飲み終えた紅茶のカップを店内へと持って行き、店内の席に座ってイーノックを待った。
皿の重なる音が店の奥から聞こえ、店内に流れていた音楽が止まる。
順々に電気が消えて、最後の電気が消える前にイーノックが息を切らして側にやってきた。
「待たせてすまない、帰ろう」
「あぁ……」
二人で店内を出る時、入口にあるスイッチを押して全ての電気が消えた。
ヒトに天界の知識をもたせてはならない。
暗黙の了解とされている事だ。危険を犯せば罰せられるとかされないとか。
神からの罰がどんなものかは分からないが、イーノックに対して天界の話をしない日はなかった。
何故だろうか、大丈夫だと思ったのだ。
他の誰でもないイーノックなのだから大丈夫だと。
「天使には色々な方がいらっしゃるのだな」
凄い凄いと子供のように目を輝かせている。
主に大天使たちの話しかしていないが、たった数人の話でも性格や能力を聞いたりするのがとても楽しそうだ。
「では、ルシフェル貴方も何か力を持っているのか?」
興味の矛先はルシフェルに向いた。
知れるなら知りたいという気持ちがイーノックにはあるらしく、服の裾を引っ張られた。
力の事を話すのは良いが、勢いだけで掴んでいる服を放してくれないと破れてしまいそうだ。
話をするから落ち着いてくれと服を放させるのに数分。
ゆっくりと歩きながら時空の旅の話を始めた。
神の目となり色々な時代の色々な物を見て感じてくる事。
その為に与えられた能力が、時を操作する力。他の天使にはないものだという事。
個人的に2010年の世界が気に入ってる事も、イーノックが気にって居る事もさらりと話をした。
「同じ場所に、貴方が二人現れてしまう事もあるのか?」
「いや、君は本当……話を聞かないな」
気に入っているの一言は、軽く流されてしまうものなのか。
それともイーノックがただ話を聞いていないだけなのか。
どちらにしても苦笑するしかなかった。時間はある、ゆっくりすればいい。
「私という先客には帰ってもらうさ……後から来た私より、前に居る
 私の方がその世界を満喫できただろうからね」
同じ場所に二人は揃わない、そう伝えるとイーノックは残念そうな表情を見せた。
何故そんな顔をするのかと覗きこむと、小さな声で何か呟いている。
「ルシフェルが二人居たら、ずっと一緒に居れると……」
かろうじて聞き取れた小さな声、言葉の意味を理解して慌てて覗き込むのをやめた。
にやける顔を抑えるのに片手を額にもっていき、小さく深呼吸をする。
なんだろうこの愛しい生き物は……。
今までにもったことのない感情がぐるぐる脳内を巡り、胸の部分が締め付けられるような痛みを発した。
ずっとカフェに居るわけではないので、二人居ればいいと思ったのだろうか
一緒に居る事を望んでくれている事実に声にならない想いがこみ上げてくる。
この想いをどうやったら伝えれるかと思いながらイーノックの頬に触れようとした時、大きな音が聞こえてきた。
何の音だと振り向いたが、その音の原因を確認する前に体を思いっきり引っ張られる。
「なっ……!!」
イーノックの手がルシフェルの腕を掴み、必死に引っ張っている様子が見えた。
全ての動きがゆっくりに見える、何故イーノックが引っ張っているのか
聞こえてきた大きい音は何だったのか理解する間もなく景色が回った。
最初に見えたのは空。夕暮れ時と同じように天界と変わらない景色。
「イーノック?」
起き上がって見た光景に言葉を失った。
目の前の建物に自動車が突っ込んでいて、側でイーノックが倒れていた。
追いつかない思考を精一杯巡らせて、指を鳴らそうという事だけが思いついた事だった。
震える手を片方の手で押さえながら指を重ねて鳴らそうとした。
これを鳴らせば大丈夫だ、時は戻り何もかも元通りになる。
「……誰だ?」
しかし、知っている声が聞こえ指が鳴る事はなかった。
あぁ、これが罰だというのならばなんという罪深い事をしたのだろうと
鳴らせなかった指を見つめると、もう体の半分以上が透明になり消えていた。
知っている声は自分自身だ。
消えてしまっている手では、もう時を操る事などできない。
「先客は消えろと……」
もう声も届かない。後からやってきたルシフェルがイーノックの肩を揺すっていた。

ほんの数日前のイーノックの言葉を思い出して、頬に雫が流れた。
庇ったモノがとても大切なモノだという事。
もう流す涙も頬すらも、見えなくなってしまっているけれど。
「仕方ないな」
後から来たルシフェルは、イーノックに向けて力を使った。
パチンとしっかりとした指の鳴る音が響き、イーノックの服から血の色が消える。
大丈夫なのだと確認できた、顔色もよさそうだ。
手や足から体にかけてゆっくりと消え、最後の最後この世界では見えない羽が舞い散った。
「………てん、し…さま」
イーノックの掠れた小さな声は、誰にも届くことはない。



「ここは面白いが、面倒だな」
後から来たルシフェルは小さく呟いた後、足を進めてその場から去った。